このような精神分析の治療目標として Gabbard 先生が提唱するのが以下の通りです。
「治療機序の主要な様式は、患者が分析家の心の中に自分自身を感じ取ると同時に、自分とは異なる分析家の主体性を感じ取る能力を獲得することである。」(Gabbard, 2003), Rethinking therapeutic action, p825. そしてFonagy 達の言葉を引用します。
[精神分析のプロセスは]メンタライジングにより、ないしは反省的な機能により心的現実を拡張していくことである。」(Fonagy, Target 1996)。UANやフロイトの言う「反復」を扱っていく上で、例えば自由連想や解釈などよりも、なぜこのメンタライジングのプロセスが強調されるのでしょうか?
APA (American Psychological Association) の辞書ではそれを次のように定義しています。
「自分と他者の心的状態を知ることで自分と他者の意図や情動を理解すること。」「リフレクティブ機能reflective functioning と同義」とされています。
ところでこれは具体的にはどういうことでしょうか?実はこれは乳幼児の発達プロセスと同様のことを言っているわけです。発達早期に赤ん坊は母親との交流の中で、母親の中に自分を見つけるという作業をします。しかしその作業は同時に、母親が自分の投影の産物に留まらないという事実を発見します。母親は独自の主体性を持った他者であるということに気が付くわけです。それと同様のことが治療でも起きるわけです。患者は治療者の目に自分がどの様に移っているかを見ることになります。しかしそれだけではなく患者は治療者が独自の主体性を持った他者であるということを理解します。これは転移逆転移関係のことを言っていると同時にそれを愛着のプロセスにも重ね合わせることが可能なように言い換えたものです。言い換えればこの母子関係においてやり残した部分、あるいはそれが破綻しつつある部分を治療者と患者の関係性の中でやり直すというニュアンスがあります。そして最近精神分析でもとても重要なコンセプトが用いられるようになりました。それがメンタライゼーションです。これはピーターフォナギーとアンソニーベイトマンにより練り上げられた概念であり、要するに相手の心の中で、あるいは自分の心の中で起きていることを理解し、可能な限り言語化していくというプロセスです。
治療者と患者の間で行われるメンタライジングはそれぞれの心に起きることを内省し照合することですが、それは必然的に患者のUANを検討することにつながります。それは臨床場面で患者がとったある言動に伴う意図や情動を検討することで、そこで働いているであろう無意識的な連合ネットワークを知ることになるわけです。ただしこれが伝統的な精神分析と異なるのは、UANの背後にある無意識的な動機やそれに関連した過去のトラウマを明らかにすることでそれを説明するという試みでは必ずしもないということです。UANはそこにいわば配線のようにして出来上がっているのであり、それを説明し理解する一つの方法などないのです。
その意味で Fonagy 達が強調するのが、not-knowing という問題が重要であると考えます。そしてこれは Bion のマイナスKとも関係しています。2019年に Fonagy らが、not-knowable stance(分かりえないというスタンス) という呼び方に変えたいと言っていたという話もあります。ここで一つ言えるのはメンタライゼーションはこの不可知性ということを強調することでポストモダン的であるということだ。ポストモダンは一つの正解があたかも実在するといういわゆる実証主義 positivism の立場を取らず、むしろ不可知論であるということです。一見「人の気持ちを分かること」という分かりやすい言葉に置き換えることが出来るメンタライゼーションは、実は人の気持ちがわかるということがいかに多層に及び、幅広い心や脳の機能についての議論を巻き込み、答えを一義的に見出すことが不可能な、その意味でいかに「分かりえない」のかということを、Fonagy たちは伝えようとしているのです。