2022年6月1日水曜日

他者性の問題 113 共意識状態についてまだまだ加筆が必要である

 私がまず強調したいのは、Dissociation においては複数の主体が「共意識状態 co-conscious」で存在しうるという点である。これはわかりやすく言えば、二人の「自分」が同時に目覚めているという事だ。もちろんそこに二人の人間がいれば、当然そうなる。二人の人間がそれぞれ自分を有しているからだ。ところがそれが一つの体、一つの脳を持った人間に生じることが解離の特徴でもあり、まだこの上もなく不思議な点でもある。

ただし第○○章でもすでに検討したとおり、たとえ意識Aと意識Bが存在していたとしても、Freud が考えたような「振動仮説」に従えば、各瞬間にどちらか一方が覚醒していて他方は眠っていてもいいことになり、そのような二つの意識のあり方は「連鎖的consecutive」ないしは「連接的 sequential」とでも表現できるものとなる。しかしDIDにおいてはこれらの形とは異なり、意識ABは同時に覚醒していることが大きな特徴であることは確かである。

しかしすでに本書で見てきたとおり、人の心はいわゆるスプリッティングを起こすことも知られる。つまり一つのことについて、ある時にはAという考えを、また別の時はBという考えを持ち、それらA,Bが矛盾しているという事がある。その典型例はとしては、いわゆるボーダーラインパーソナリティにおいて見られるスプリッティングである。そこでは例えばある日は治療者を理想化し、翌日には徹底的にこき下ろすといったことが起き、あたかも治療者に対する二つのイメージが矛盾した形で存在しているかのごとく感じさせる。
 このようなスプリッティングで特徴的なのは、その矛盾した対象イメージに対して本人に問うても、当人はそれに当惑を覚えないという事である。彼は「昨日は自分はそう思った、でも今の私は先生に対して全く違った気持ちを持っている」という言い方をするであろう。つまりスプリッティングといっても、それは対象イメージについて起きていることであり、当人の心が分かれているという事ではない。つまりAという思考を生んだ意識と、Bのそれとは「共存している」のではなく同一のものなのだ。

ところが解離の場合は全く異なることが生じる。おそらく患者は同様の事態に関して、次のようなことを言うはずだ。「残念ながら先生に対してその様な言い方をした覚えが全くないのです・・・。」つまりAという言葉を発した心とBという言葉を発した心が連続していないという事になる。

では解離の場合Aを生んだ意識とBを生んだ意識が同一のものでないという証拠はあるのであろうか?もちろんある時はAと言い、別の時はそれを言ったことを忘れてBと言う意識がそれでもボーダーラインのスプリッティングのように単一のそれであると主張することが出来なくもない。そしれそれがFreud の「振動仮説」に見られた立場である。しかし私たちが二つの意識の存在を確かめることが出来るのは、それらが共意識状態にあるという例を体験することにある。