2022年6月13日月曜日

治療者の脆弱性 2

  脆弱性については色々な種類があると考えるが、私が特に考えたいのが自己愛的な脆弱性ということだ。それは私たちが最も陥りやすい、と言うか自己愛を有するということはほぼ自動的にその脆弱性を備えるという意味では、私たちの存在にとって最も身近なものの一つだからだ。
自己愛と恥は表裏一体である
 私が自己愛という言葉に特別なものをさすつもりはない。きわめて単純な事実がある。それは人は常に自分のことを理解し、評価して欲しいということである。人にこれほど切実な欲求はあるだろうか? しかし人は同時に誤解されたり、理解されなかったりすることになれている。だから期待しないようにしている。しかしそれでもつい願望を持ってしまうのだ。そしてこの願望が常にある以上、それは脆弱性の存在を意味する。人から無視されたり、誤解されたりすることの苦しみ。治療者のそれは患者にさえ向かうのである。自分の解釈を誤解されたのではないか。「先生はわかってくれない」と患者から言われたことに対して、治療者は「私がどんなにこの患者のことを考えているかをわかってくれていないのか」、という形で自己愛の傷付を体験する。これを自己愛憤怒、ないしは恥の感覚と言う。いずれも自己愛的な脆弱性の表れである。人は「おはよう」「こんにちは」という声掛けに対して反応がなかったり、声が小さかったりするだけでも感情的に反応する。これは相手の感情状態を読み取るときの繊細さにも増していると私は考える。そこで自己愛的な脆弱性が生む二つの反応について考えたい。一つはコフートが述べた自己愛憤怒である。これは怒りとして相手に表出される。しかしこれは相手がその怒りを表出してもこちらに問題が生じない場合である。これが部下であったり、こどもだったり、生徒だったりする。そしてそれがもしかなわなかった場合、人は恥じ入り、抑うつ的になるのだ。