この問題はとても重要なテーマとかかわっている。それは私たちは自分たちをどの程度反省することが出来るかということだ。これについてはある種の常識的な考え方が成り立つであろう。それは私たちがそれに直面することが出来る分だけである。別言すれば私たちはあるレベルまでの反省はできても、それ以上は原理的に無理があるということである。ある分析家の提言を思い出そう(以前何度か引用したことがあるが失念した)。私たちの思考はそれより上位のものに対する防衛となると同時に、それ以下のものにとっては衝動であるということだ。例えば私たちがある日仕事が終わってからとてもアルコール飲料を取りたくなるとしよう。あるいはとても甘いものを食べたくなる、でもいい。そしてそれはふとその日職場で体験した不快な出来事に関係していることに気が付く。同僚に言われた何気ない一言により自分の能力に疑問を投げかけられたような気がして、一瞬それを忘れようとしていたのだ。そしてその言葉を思い出すうちにどの同僚への怒りが湧いてくる。普段は仲良くしているが時々自分を脱価値化してくるその同僚に、自分はかなりの憤りを感じていることに気が付くのだ。そして我慢できなくなり、その同僚に怒りのメールを出したとする。その同僚も謝罪してきて、あなたはその怒りのメールがちょっと度を過ぎていたような気がし出し、また反省モードにもなる。しかしそれはその同僚により指摘されたことが正しいのではないかという考えを防衛していた内容であることが分かる。つまりこのメールを書くこと自体が彼自身が持っているより深い、それこそ自分の存在そのものに対する疑い、生まれてきたことそのものへの疑いに関連していたとする。そしてそれはあなたの幼少時におけるある種のトラウマ体験が関係していることに思い至る・・・・。
ここでアルコールを飲む ← 同僚への怒りへの防衛 同僚へのメールを出す。← より深い自尊感情の欠如への防衛 という関係があるとしたら、最後の自尊感情の欠如へと行きつくことはさほど多くないかもしれない。それはおそらくつらい現実に突き当たった体験か、あるいは心理療法などでの洞察を得た場合に生じるのかもしれない。しかし日常生活でその過去のトラウマ体験にまで行きつくことはどの程度あるのだろうか。
このように考えると私たちが治療者としてどこまで自己反省を自分に強いることが出来るかということについてもある種の結論が出ている気がする。それは自分自身が許容する範囲での反省、ということになる。別言すれば、それ以上反省することはとても苦しく、たいていは否認されているような心の内容には、私たちは触れることが出来ないのだ。ということは・・・・。逆転移の理解ないし解釈は常に限界があり、逆転移を理解した、反省したという思いは常に誤謬や欺瞞をはらんでいるということになる・・・・。