2022年6月14日火曜日

治療者の脆弱性 3

恥と自己愛トラウマ
 私は2014年に「恥と自己愛トラウマ」という本を書いた。その前書きでも言ったことだが、私は恥こそが最も人間にとって威力を持つ感情であるという立場を述べている。「恥を恐れ、恥をかきたくないという思いが人を強力に突き動かす。恥をかかされたという思いが相手への深い憎しみとなるのである。」とし、恥をかかされた体験を「自己愛トラウマ」と呼んだ。そしてこのトラウマの特徴として、加害者が曖昧であるということを強調した。ツイッターでつぶやいたことに対して、誰も反応をしてくれないとしよう。ブログを更新しても誰も読んでくれないとしよう。それを書いた人は深く傷つき、自己愛トラウマを体験する。しかしいったいどこに加害者がいるのか。誰もいないのである。あえて言うならば理想的な自己像、ツイッターに沢山反応が来て、購読者数が万を超えるようなユウチューバーであるという理想像を描いた自分こそが加害者なのである。
 もちろん私たちが自己愛トラウマを体験するとき、その明確な対象がいることもある。「あの人にバカにされた」「あの人にひどい暴言を吐かれた」などの場合である。しかし時には加害者と思われている人に、そのような覚えが一切ないという場合もある。あるいはそれを指摘されても「そんなつもりではなかった」「まさかその様に取られるなんて…」と驚くことも少なくない。私がこのことでよく例に出すのは、この「恥と自己愛トラウマ」にも書いた例だ。
2001年4月30日、東京の浅草で19歳の短大生が刺殺されるという事件が発生した。ずいぶん前の話だが、犯人のレッサーパンダの帽子をかぶった奇妙な男の写真を覚えている方も多いだろう。札幌市出身で当時29歳の無職のこの男は、普段は非常におとなしい性格だったというが、浅草の繁華街で見かけた女性に「友達になりたいと思って」声をかけようとして、結局この凶行にいたったという。「歩いていた短大生に、後ろから声をかけたらビックリした顔をしたのでカッとなって刺した」と供述しているとのことである。
 私たちが日常出会ったり、メディアで接したりする怒りの多くは同様の不可解さを少なからず備えている。この事件でも青年は普段はおとなしく、この種の暴力行為は予測しがたかったと言われている。そしてこの「びっくりした顔をしたのでカッとなった」という説明などはほとんど意味不明である。「びっくりした顔」もこの男性を、相手を殺傷としたくなるまでに傷つけたとしたら、これはまさしく加害者不在と言わざるを得ない。