あらゆる心は、それが耐えることのできる限度window of tolerance を有する。限度や範囲を超えた体験に対して私たちはひどく脆弱であるし、また将来にその到来を思わせる予感や暗示的な出来事にも私たちは敏感に反応し、その際は信号としての不安や恐怖を覚えるのである。「不安や恐怖はしなやかだが折れない枝」の維持に欠かせないものなのだ。ちょうど健康な体はそれを侵害しそこなうようなあらゆる外的、内的な変化により痛みを覚えたり免疫反応を起こしたりするのと同じようにである。私はこのことを死の予期の問題と同類のものと考える。死を予期することは必然的に不安や恐怖を伴う。しかしそれを抜きに私たちの人生はありえないのだ。つまり脆弱性は必然なわけである。これは一切不安の伴わない余生を漠然と思い描いていた私にとっては非常に予想外のことであった。年老いるということは、常に一歩一歩機能が落ちて行く肉体に逆らって生きていくことであり、必然的に不安や恐怖や痛みを伴うものなのである。
ただし敏感さや繊細さは必ずしも脆弱性を伴わない場合もあるだろう。例えば映画を見ていて登場人物が表現する感情のかすかな寂しさを感じ取ることは繊細さと関係しているが、それは脆弱性に繋がらない。その映画を観た後、主人公の不幸な人生のことを思い暗い気持ちになることなどないであろう。ところが目の前で対面している相手の寂しさ、悲しさを感じ取るとしたら、それに対して治療者は情緒的に大きく巻き込まれる involve ことにある。そこにはそのクライエントに対してどのような情緒的なリスポンスをなすかについても含まれる。ある意味では治療者はそこに待ったなしのかかわりを持つことになるのだ。
そしてそれは即脆弱性と結び付く。それは子をもった親であったら、痛切に感じることだ。いたいけな子供を持つことで、どんな強靭な精神をもった親も極端に脆弱になるのであある。