私は哲学的な議論は難しすぎてわからないので、西田幾太郎の絶対他者とかラカンの大文字の他者など耳には入ってくるのですが、ありがたみが分かりませんでした。最初にそのきっかけを作ってくれたのはウィニコットです。
Winnicott は1969年に不思議な短い論文を書いていて、それが「the use of an object 対象を用いること」というものです。そこでおずおずとこんなことを提案します。「私たちは対象と関係することを知っている。何しろ対象関係論、というくらいだから。そして関係するとは相手を自分の投影の産物としてみることである、と。つまりはBさんとかかわっていても、心の中のBさんイメージと戯れているかもしれない。ただしBさんも私Aに対してそうしていて、これを私(ウイニコット)は、交差同一化cross-identification と呼ぶのですが、私はその先にある関係性について提案したい。それが対象を用いることである、ということです。
言い直すとこうです。対象と関係することは要するに相手と空想の世界で会うこと、「主体的な現象の内側で相手と会うこと」であり、他方用いるとは、「主体的な現象の外側に置くこと」です。そしてこれは双方にそのキャパシティがなくてはなりません。つまり私たちAが他者Bを用いるためには、AがBを用いる能力があり、Bに用いられる能力があるということを意味します。そして用いることが出来るとは、Bからやがて去る覚悟を持つということです。そしてBから見たら、Aから去られる覚悟を持つということです。ということはお互いに無常なるもの、儚きものとして関係するということです。このことをウィニコットは論文の最後の方で行っています。分析家は患者から用いられることに慣れていて、それは治療の終わりを見ることが出来ることであるといっています。