私たちは自分の一番脆弱である意味では人間らしい部分を晒す相手を限るものだ。ごく親しい友人や恋人や家族である。あるいは自分のセラピストもそれに入るだろう。親しい友人ならこちらも相手の弱さを晒すことを受けいれている。そこでお互い様だ。そしてその弱さとは一番プライバシーにかかわることであり、むやみに外に知られたくないものだ。そこで親しい仲ではお互いにそれを外には漏らさないという暗黙の約束をしているという所がある。そして親というのはある意味ではこちらの弱さを一方的に知っている存在なのだ。一方的に弱みを握られている存在ということになる。
この様に考えると「勝手に産んだ恨み」という言葉が浮かんできた。私はこのことを全く考えたことがなかったが、最近の富樫公一さんの本の一チャプター“Being thrown into the world without informed consent” も思い浮かぶ。私は母親に生んでもらったことは感謝しているが、親の都合で自分が生まれたという、紛れのない事実には理不尽さを覚える。「私は生まれてきて問題がなかったからいいけれど、それは運が良かっただけではないか?」という気持ちがある。そしてもちろん私は全く同じように自分の子供をこの世に生み出したわけだ。だから子をなす、子として生まれるというのは理不尽なことなのだが、生物としての私たちの在り方は本来そういうものなのだ。
しかし勝手にこの世に生んだ、というだけでなく、自分の好きに自分を支配し、自分を育てた、という気持ちもある。これなども全くひどい話で、大変な恩を受けて大人にしてもらったくせに、よくもこんなことが言えるのであるが。しかし子供が「頼みもしないで自分を生んで、そして頼みもしないのに勝手に育てて」と親を恨むのはある意味では根拠あることなのだと思う。そしてこの恨みが何を示しているかと言えば、子供にとっての自分という存在はそれだけ親という存在にどっぷりつかって出来上がっているという事なのだ。結局それが決め手らしい。様々な習慣、ものの考え方、癖、言葉の使い方などが一度は親との同一化を経ている。そしてそれを最初は全く無抵抗に受けざるを得なかったわけだ。全く好き勝手に、時には理不尽に怒られ、教育され、洗脳されてきたことへの感謝とも憎しみともつかない感情を私たちは親に持っている。私たちは幼い頃は親の一言に100%動かされて育ってきた。そしてその本能的、反射的な受け身性をやはりどこか深いところに持っていて、それに対する嫌悪やいら立ちがその根底にあるのではないか。私たちが親に持つ気持ちは、①親に対する転移、②親からの終わることのない転移への逆転移で構成されているのではないか。
①
とは「親は自分を支配しかねない存在だ」という気持ち。
② とは親の「うちの○○ちゃんは私のいう事を聞くいい子だったはずだよね」に思わず従いそうになる部分、というわけだ。
だから親に知られることでこれ以上支配され、振り回されたくないという気持ちがわくのであろう。