2022年1月22日土曜日

偽りの記憶 論文化 11

ちょっと付け加えた。

 私は米国においてPTSDや解離性障害についての関心が高まるさなかの1980年代の半ばより1990年代までアメリカで精神科の臨床を行っていたが、その間の動きをよく思い出す。1980年代には多くの女性や子供が、一般的に知られるよりはるかに高い頻度で性的、身体的なトラウマの被害者となっていたことが明らかにされた。その結果として戦闘体験を有する人や性被害の犠牲者となった人々が示すPTSDや解離性障害が数多く報告されるようになったのである。ただしこれは個々人があまり思い出したり語ったりしようとしなかった記憶が問題とされるようになったというばかりではない。社会が、医療従事者がそれを無視したり注目していなかったことがかかわっていた。1988年にはエレン・バスとローラ・デービスによる「生きる勇気と癒す力」では、チェックリストを示し、それに該当すると幼児期に性的虐待を受けて、その記憶を抑圧しているために忘れている可能性が高いことを示した。また1992年にはハーバード大学のジューディス・ハーマンも「心的トラウマと回復」で幼少期のトラウマによって自責や自殺願望に苦しめられている女性たちを救うためには、“抑圧された記憶”を回復させることが必要だと説いた。虐待の被害者が治療によりその記憶を蘇らせ、そこから回復する過程を描き、わが国でも阪神淡路大震災の翌年の1996年に翻訳されて出版され、大きな反響を呼んだ。
 ところがそれからワンテンポ遅れる形で出てきたのが、いわゆるFMSの問題、つまり「false memory syndrome 偽りの記憶症候群」というテーマであった。つまり数多くの人々が性的虐待の加害者であったことが告発されるとともに、過剰に、または誤った形で被害記憶を「想起」してしまうという出来事も生じてきてしまうという事態になった。そして出来上がったのがFMSF(偽りの記憶症候群財団)である。
 偽りの記憶の議論が生まれる背景には、幼児期の性的虐待の問題がクローズアップされたことが背景にあることは間違いない。そして幼児期の性的虐待の記憶を呼び覚ますことを試みる精神科医や心理士やソーシャルワーカーが沢山現れた。そして幼少時に自分を虐待した親を訴える訴訟が生まれた。するとその中に幼少時に虐待を受けたという記憶を「誤って想起した(させられた)」ために甚大な金銭的、社会的損害を被った親たちが利益団体を形成した。それがFMSFであった。
 欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む傾向にある。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこのFMSFをめぐる論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。 
 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベス・ロフタスその人である。ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994年)から要約すると以下のようになる。
「私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる黒板のようなものであると考えられてきた。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのである。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになった。これが記憶の再構成的モデルと言われるものである。」
 ロフタスは彼女の研究を通じて、幼少時の性的外傷がしばしば抑圧され、それが治療により想起されるという立場を取った臨床家、特に「トラウマと回復」の著者であるジュディス・ハーマンなどに向けられた。このハーマンとロフタスの論争は、このトラウマ記憶の回復をめぐる論争や対立を象徴していたと言えよう。そしてロフタス自身も2003年に、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、タウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。しかしそれ以後もロフタスの「回復した記憶の理論」は児童虐待の社会的な広がりを軽視したり否定したりする立場として批判され、「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていたと言われる(Jenkins)。
Jenkins, WJ (2017) An Analysis of Elizabeth F. Loftus's Eyewitness Testimony. Routledge.