2022年1月30日日曜日

引き続き 他者性の問題 7

 書いているうちに少しずつまとまってきたが、本当にこの方向でいいのか。通常の他者とは、私たちがある程度知ることで内在化され、心の中に内的対象像を結ぶことで安心して関わることが出来る。それが出来ないことには一瞬たりともその人と対等な立場で会うことが出来ない。そのことを示すために、変な例を思いついた。
 列車の4人掛けの席に座り、ふと目の前に座っている人を見ると、上から下まで黒ずくめの衣をまとっている。あなたはギョッとしてその人を観察する。しかしその人が男性か女性かも、年齢も、あるいは果たして人間なのかもわからない。手足もすっぽり黒い衣装に覆われ、体型さえもわからないのだ。しかし時々頭の様な部分を動かし、呼吸するような音も聞こえるので、生きているらしいという事はわかる。そのうちその黒ずくめは片手(のようなもの)をこちらに差し出してきた。明らかに貴方にかかわりを持とうとしているようだ。・・・・
 あなたの対面にいるその人物(本当は人かどうかもわからないのだが…・)に対して、貴方はどのような態度を取るだろうか? まず間違いないのは、貴方はものすごく警戒するという事だ。相手は突然こちらを攻撃してくるかもしれない。今からその場を離れて「不審人物がいます」と通報したいという気持ちにかられる。でもそれをしてはいけないという気もする。その人は何かの病気で光をいっさい浴びることが出来ずにその恰好をしているのかもしれない。という事はその人はハンディキャップを負っている人、障碍を持った人という事になり、その人を怪しい人として通報するのはもってのほかだ。でもそれは実は人ではなく、動物であり、あるいはエーリアンであり、やはりSAT(機動隊特殊部隊)か何かが出動しなくてはならないのではないかと思う。そこであなたは周囲の人の反応を見るが、何と日本人的な反応なのだろう。みな見て見ぬふりをしているのだ。しかしそれにしてはその人(?)の周囲にはあまり座っている人がいない。「ここら辺、席が空いている、ラッキー!」と喜んで座ったあなたが不注意であり、例外的だったのだ。

何か描写するのが面白くて明らかに脱線しているので元に戻る。私はある意味で純粋な他者を描いているのだ。他人を主体として、得体のしれない人として遇するとどうなるかという事の一つの例だ。この例は私たちは少なくとも安全な対象イメージを心に描くことなしには対象と関わることが出来ない。もしその黒服の人物が、貴方のパートナーが事情があってその様な格好をしていると知っていたなら、その黒服を見ても「変な格好をしたうちの旦那」というイメージを心に持つことで関わることが出来る。
 つまりこういうことが出来る。私たちは対象と関わる時、内的対象像とそれではカバーできない新奇な部分の両方を体験しているという事だ。ところが問題なのは、私たちの内的対象像は暴走し、相手を束縛するのだ。おそらく「投影」という作用により。母親から「Aちゃんはお姉ちゃんだからね、我慢するのよ」と言われたAちゃん。「そうなんだ、私はお姉ちゃんなんだから、妹の我儘を聞いて、譲ってあげなくてはならないんだ」という理解に基づいた自己イメージ、つまり「我慢強いお姉ちゃんのA」を作り上げる。Aちゃんは母親の持つA ちゃんについての対象像に拘束されることになるのだ。

ただしこの対象イメージは本当はもっと相互的につくられるものだ。例えばAちゃんが「私だって妹に譲ってばかりではなくて我儘が言いたい!」と強く主張したとする。すると母親は「時々我儘を言う、聞かん坊のAちゃん」という大敵イメージを持つことになるかもしれない。そしてそれはAちゃん自身が持つ自己像「言いたいことは言うA」に対応して形成されたと見ることもできる。
 このAちゃんと母親の関係では、どちらの思いが強いか、どちらが相手に合わせてしまいやすいか、というファクターは結構大きい。母親の我が強いと、自然のAちゃんの方は凹む。また逆も可能だ。そしてAちゃんがあまりに相手に合わせる(それも無意識的に)タイプであれば、母親は自分の持つAちゃんの内的対象像によりAちゃんを支配しているなど思いもよらないだろう。
 色々行きつ戻りつしたが、「母親には自分を知られたくない」、には次のような原因があるようだ。やはり母親が持つ私についての対象像が問題だ。私はそれに支配されてきた。もちろん反発するためにいろいろ工夫をしたし、出来るだけ早い時期に一人暮らしをするのはその一つの手段だった。しかしそれは逆に言えば母親の私に対するイメージの支配力が私にはやはりとても大きかったという事だ。私がそれだけ我が弱かったという事にもなるし、相対的に母親の我が強かったという事にもなるだろう。その様な母親に私の情報を与えることは、さらにその支配力を強めるという事になるからだ。
 これらの事情はしかし、私が相手に分かって欲しいという気持ちに拮抗するものではない。特に気兼ねなく献本したのもその理由だ。だから相手の私についての内的対象像に支配される懸念のない、純粋な他者(一視聴者、読者)などから理解されたと思うのはとてもうれしいことである。