2022年1月11日火曜日

偽りの記憶 推敲 7

記憶の神経学的な仕組みについての補足 記憶について考えるうえで参考になるのが、ミラーとブッシュマンの研究 (ショウp225)である。(Miller ,EK & Buschman, TJ (2013)Brain rhythms for cognition and consciousness. Neuroscience and the Human Person; New Perspectives onHuman Activities.121.) 要するに記憶の正体とは、脳の中でいくつかの神経からなるネットワークが興奮し、起動しているということである。そしてそれはさらに言えば、ある特定の事柄を意識しているとは、それに関連した神経ネットワークに参加するニューロンが同期化しているという話だ。ここで同時に興奮することと、それらが同期化することの違いを理解していただきたい。同時に興奮することとは、脳のいくつかの部位が同時に興奮しているということであり、そこに必ずしも同期は含まれない。例えば料理をしているときは、料理に関するいくつかの部位が同時に興奮していることで、例えばフランス料理を作っている時は、イタリア料理のことも比較的容易に思い出せるであろう。それは例えば家で料理と全く関係のないゲームをやっている時にはイタリアンのことを思い出せないという違いにより表される。ところがフランス料理の中でも、例えばブイヤベスを作っている時、それに使っている食材のことも、過去に作って評判の良かったブイヤベスの記憶も、おそらく一つのこと、同じこととして体験されるのではないか。そのような時におそらくそれらのイメージを結ぶ神経細胞の興奮は同期化している(サインカーブが重なり合う)のである。同期化という言い方が分かりにくいなら、「共鳴」でもいい。神経細胞の興奮が同期することとは、それらがお互いに高め合う効果を生むということである。 さてすでに同期化を繰り返している神経細胞のグループならこれはやさしい。例えば歴史上の人物「ショウトクタイシ」を私たちはよく知っているから、これらの8つの音は同期し合うことで共鳴する。すぐにピンとくるわけだ。同時に「オノノイモコ」も同期しやすいはずだ。ところが二つを切ってつないで「ショウトクイモコ」としてもすぐには鳴ってくれない。しょうがないから両者を同時に無理やり鳴らすことに意識野は使われる。これをやり続ける仕事がワーキングメモリーだ。もう少し身近な例だと、でたらめな7桁の番号、例えば34290765を一分後に書けなくてはならないとする。しかもメモすることが出来ない。その時にはこれら7桁の数字をこの番号で覚えるという記憶を、意識のワークスペース全体を使わなくてはならないことだ。ショウはこのことが、人間の意識がどうしてマルチタスクが出来ないかについても説明するとしている。それをするには一つのニューロンがいくつもの波長のリズムを送り出さなくてはならないが、それが出来ないというわけだ。 過誤記憶にはいくつかの種類がある 私たち精神科医が遭遇する過誤記憶に類似した現象には、他にいくつかありそうだ。それらとは妄想であり虚言、つまり嘘である。これらは精神病理学的に明白に区別されるべきものだが、これが案外厄介だ。  ある架空のAさんを考えよう。彼は野球をやっていて、巨人軍のスカウトからアプローチをされたという。その話を聞いた私は、Aさんの野球の実力を知っているためにそれがおそらく現実には起きそうにないように思えるとしよう。しかし全くあり得ないことではないところが難しいのだ。まずこれが妄想である可能性についてはもちろんある。現実にないことを頭の中であたかも実際に起きていることとして作り上げてしまうという病的な現象が妄想だ。あるいは虚言(つまり嘘)であるという事も十分ありうる。こちらは精神疾患とは言えない。多かれ少なかれ人間は嘘をついてしまうことが時々ある。 ところがこれが過誤記憶である可能性があるとはどういう事だろうか。例えばAさんが夢を見て、その中で野球の練習からの帰り道にある男が「私は巨人軍のスカウトですが、貴方の練習を見ていて将来性を感じました。連絡先を教えていただけますか?」と言い、Aさんは電話番号を告げるとその男は立ち去ったとしよう。ところが月日が経つと、Aさんはそれが夢なのか現実なのかがわからなくなって来たとしよう。その練習場所はいつものなじみのグラウンドだし、そこでAさんの練習をたまたま見ていたスカウトがAさんにアプローチするという事は全くないわけではない。そして夢の内容を現実に起きたものに知らぬ間に置き換えてしまうというのは過誤記憶に分類されるのだ。こうなると一見あり得そうにない話を聞いた場合、それを過誤記憶か妄想かという問題になるが、前者は正常でも起きえることで、後者は精神病の症状だという区別をすればそれで済むというわけではない。何しろ妄想的な着想は一見正常人と思われる人にも突然孤立して現れることがあるからだ。 ちなみにこれにはさらに厄介な事態が関係する。Aさんにファンタジー傾向が強く、実際にプロ野球の球団からスカウトされることを夢見ている彼は、そのような場面を夢想することもあるだろう。白日夢、ファンタジーという事になるが、それは夢とは違い、ある程度意のままに構築することが出来るのだ。そしてAさんがそれに没入した場合に、これも将来過誤記憶として成立する可能性がある。ファンタジーの中で生じる出来事が、より現実に近い内容であるとするならば、それは現実といよいよ区別がつきにくくなることもあろう。
  自己欺瞞か嘘つきか? ある研究では写真の顔を魅力的に出来たり、不細工に出来たりするソフトを作り、(面白いソフトがあるもんだ)被検者のオリジナルの写真と、加工を加えた何枚かの写真を提示した。するとほとんどの被検者が選んだのは、オリジナルより10~40%魅力度を上げた修正写真だったという。ちなみに友人の写真と面識のない人の顔では、10%上げたもの、面識のない人なら2.3%上げたものを選んだというのだ。まあ分かりやすく言えば、人は自分の顔を美化する、ということだが、これは過誤記憶の問題にもかかわってくる。私たちは自分を欺くことがうまいのだろうか?ところが他人の写真でも、アカの他人でも同じような傾向が起きるとしたら、これは自己欺瞞とも言い切れないことになる。 このテーマとの関連で私はダン・アリエリーの研究を思い出す。(以下省略)