2022年1月10日月曜日

偽りの記憶 推敲 6

偽りの記憶の植え付け

 人工的に健常人に偽りの記憶を受け付けることが出来るのだろうか?結論から言えば、被検者の70%以上が、犯罪と感情的な出来事の両方で、完全な過誤記憶を作り上げるという。こうなると例えば裁判などにおける証言の意味すら曖昧になってきたりする。(裁判にかなりの回数出た経験があるが、利害関係を有しない人に関する証言は、自然科学におけるエビデンスと同等にあつかわれるという印象を持っているからだ。)

例えば海軍でのサバイバル訓練の例が挙げられている(ショウ、p.208)。そこでは模擬的に捕虜にされた特定の人物に厳しい尋問を受けるという状況に身を置かれた人たちが、その後に偽の尋問者の写真を示された。やがて解放された被検者は、何と8491%の率で、写真で見せられた誤った人物を尋問者として報告したという。それに具体的な情報でさえ、質問をそのように仕向けるだけで過誤記憶を生み出した。例えばそこに電話はなかったにもかかわらず「尋問者は電話をかけることを許可したか?」そしてその電話について描写せよ、と言われただけで、98%の被検者は、そこに電話があったと証言したという。

私はここには人間が人の言葉を信じたり、そこに迎合したりする上で極めて重要な性質が示されていると思う。例えばABかという比較的重要な決断を下すような場面を考える。あなたはそのどちらかについて決定的な意見を持っていないものの、とりあえず個人的にはAを選ぼうと決めているとする。しかしそれを数人の間の徹底的な話し合いにより決まるとし、そこでは全会一致の判断が採用されるとするならば、最終的にBに合意することになるとしよう。あなたは本当はAに未練を残しているが、「あなたも話し合いでは最終的にBで納得したはずじゃないですか。あれは本心じゃなかったのですか?」などと言われると「いや、確かにBでいいと思いました。はい、Bでいいです・・・・」となるだろう。ここには無言の圧力、英語ではpeer pressure が働くはずだ。この偽りの記憶の生成にも似たような作用が働くのではないか。

例えばこの海軍の実験で、「電話を使うことを許可されましたか?」と言われたときの被検者の反応は「え、電話ってあったっけ?」かもしれない。しかし尋問者のさも自信ありげな質問の態度から「あの電話を見過ごすのは私がどうかしていたからだろうか」と思い始め、いつの間にか電話がそこにあったことになってしまう。「電話があったか自信がない」から「電話があったことにしよう」という変化のプロセスがかなり微妙な形で、しかも一瞬で生じた場合、私たちはこのことに気づかず、過誤記憶が生み出されるとしたら、これは大いにありうるし、実際に私自身にも起きているような気がする。

言語化が過誤記憶を生み出す

おそらくこの問題に関連して興味深い話がある。それは「言葉にすると記憶が損なわれる」という説である。これに関連して面白い実験が描かれている。人に30秒ほどある人物の写真を見せ、二つのグループに分ける。一つにはその写真の人物を言葉で描写してもらい(例えば紙が茶髪、目の色が緑、唇が薄い、など)、もう一つのグループには何も施さない。そして数日後にその写真をどのくらい覚えているかを調べる。すると書き留めてもらった人の正解率は27%で、それをしなかったコントロール群は61%であったという。つまり言葉に直した方のグループに、そこで大きな記憶の歪曲が起きたのだ。この種の実験も結構色々な研究者により追試されて、同様の結果が出ているという。色や味、音などについても同様の結果が出ているらしいのだ。言葉にするということはそれをかなり限定し、歪曲することに繋がる。それが過誤記憶を生む傾向を増すという事らしい。
 この問題との関連で、ジェフリー・ミッチェルのストレス・デブリーフィングについても触れたい。CISD(Critical Incident Stress Debrifing 緊急事態ストレス・デブリーフィング)というやつだ。ある事故が起きて、多数の人が犠牲になっている時、そこに乗り込んで犠牲者を集め、何が起きたかを徹底的に聞くという手法だ。これは911の時も用いられた有名な手法だが、その後これを受けた患者により多くPTSDが発症したなどの報告があった。ショウの本はこの試みがどの様な意味で問題なのか、なぜ記憶の専門家からの異論があるのかを解説する。一つには人の記憶を融合させる見本であるという。例の「言語隠蔽効果」(言葉にすることでかえって誤った記憶が生成される)により自分の描写と他者の描写が記憶として混同されて残ってしまうかもしれない。それに代理トラウマも起こる。ショウは以下のように記述する。トラウマになりかねない体験potentially traumatic experience, PTE はアメリカ人の90%が体験する。ところがそれによりPTSDを発症するのはその10人に一人だという。つまりほとんどの人は深刻なトラウマとなりうる体験に対して反応を起こさないのだ。しかしそれでPTSDになるかもしれないのではないか、という疑いを持った人は実際にそうなってしまう可能性があるという。

ここの部分は私がこの偽りの記憶について書く論文の核心部分になるかもしれない。私が個人的に知りたいところだからだ。いつか英国と米国でPTSDの罹患率がずいぶん違うというデータを見たことがある。同じ戦闘体験による外傷でも、米国ではそれがPTSDを起こしかねないという言説に晒されると、よりPTSDになりやすいという話を聞いて、とても混乱させられた。でもこのことなのかもしれない。

以下に書く問題はこの偽りの記憶の問題とは必ずしも結びつかないが、大切な点だ。自分が親から厳しいしつけを受ける。体罰も含めて虐待に近い扱いだ。ところがそれを当たり前だと思うとそれがトラウマになりにくい。どこの家庭でも子供が悪さをしたり、行儀が悪いだけで殴りつけられていた社会では、自分だけがひどい扱いを受けているという実感がなく、したがってトラウマとして体験されにくいという事はないのではないか?このことは子供を人とも思わない扱いをしてきた人類の歴史を考えればわかる。これは悲しい現実だが、あらゆる機会に子供は虐められ、女性は凌辱を受けかねないというのが私たちの歴史である。その様な状況で、おそらくPTSDは今ほど起きなかった可能性がある。それは一つには「皆がそのような扱いを受けている」という感覚があったのではないだろうか。奴隷は人間として扱われないという過酷な状況を生き抜いたが、みなCPTSDを発症したわけではないだろう。あるいは社会主義、共産主義体制が厳格に守られている社会で、さらには軍隊のような規律が厳しい体制の中で、例えば不登校、出社拒否に相当する行為が許されただろうか。トラウマによる被害と発症は、それが可能な状況においてのみ起きるのではないか?

これは想像するだけで怒られそうな話だが、このことと代理トラウマのことが関係していそうだ。