2022年1月31日月曜日

引き続き 他者性の問題 8

 どうしてこんなに分かって欲しいのだろうか?

そこで改めて本題だ。フォナギー先生は以下のように言っている。「他者に理解されているという感覚への生物学的欲求は、他のほぼすべての目標に優先する」。

私達が常に欲しているのは、他者から理解され、承認されることだ。多少なりとも社会性を有している人は、よほど徹底したスキゾイドの人でない限り、他者に承認されることを望む。フォナギー先生の言うとおりだし、コフートの主張もそこにあったのだ。

そのことは定型的な発達を遂げている子供を見ればわかる。幼少時には母親に見られ、その存在を肯定されることは、子供が自己を形成するうえで決定的な役割を果たすのだ。それなのにどうして私たちは成長するにつれ、他者に見られ、知られることを時にはこの上なく疎ましく思うのだろうか?私たちがその人たちから存在を認めて欲しいと思うのは、それほど特別な他者なのだろうか?

まず他者に理解され肯定される必要について。ある程度自己理解を深め、社会で機能している人を考えよう。十分に自立して一人の生活も楽しめている。それでも他者からの承認を必要とするならば、それはどのような状況だろう。それはそのような人でも自分に対する自信が揺らぐことがあるからだ。そんな時人は「私はこのままでいいのでしょうか?」と他者に問いたくなる。それは端的に、私たちは自分自身を見ることが出来ないからだ。あるいはある程度は見ることが出来ても、凝視しているうちにその像がぼやけてくるものだ。

例えばある人が自分をそこそこ正直で倫理的な存在であると考えているとしよう。その人がたまたま信号無視をして道路を横切るとしよう。安全であることが明らかなら時々やっていることだ。ところが偶々それを見咎めた人から厳しく非難され、社会人として失格だと言われるとする。そのうちあなたは「本当にそうかもしれない」と思い始める可能性がある。もちろんちょっと注意されただけではそうはならないだろう。しかしその叱責が延々と続き、その人が多少なりとも私たちが敬意を払う人であったら、私たちは徐々に自信がなくなっていくはずだ。「それほどひどい人間だろうか?」と自問していくうちに分からなくなっていくはずだ。自分に焦点を当てると、それは徐々にボヤけてくるものなのである。そして誰かの意見を聞きたくなるだろう。そして誰かにそのことを相談し、「そこまで言われるほどでもないんじゃないですか?」と言われるとホッとし、「やっぱりね。」と安心するだろう。 

こんな浅薄な例ではなく、「自分はこの世に生きていく価値があるのか?」という深刻なレベルでの悩みを持っている人には、現実の他者が自分をどう遇するかを知ることは、とても切実になる。このように考えると人は決して一人で生きていくことは出来ないのだ。こう書くとなんだかとても当たり前のことを言っているようであるが。私たちは自己イメージを他者からの肯定により維持できるということだ。

ただしこの「他者からわかってもらえた」という体験は、実はかなり実証性の乏しい、いわば私たちの思い込みに基づいた体験でもある。ある他者から「その気持ちは分かりますよ」と言われて私たちはホッとし、ありがたいと思うだろう。ところがそれはいったいどのレベルでの理解なのか、本当に自分の思いや体験を正確に理解したうえでの言葉なのかは極めて怪しい。だからその人が別の場面ではあなたを理解してくれないと感じた場合、「あの時は分かってくれた人がどうして?」と思うと同時に「あの時も本当の意味で分かってくれていなかったのではないか?」と疑うことがある。それほど「わかってもらえた」という感覚は刹那的で、こちらの思い込みである可能性が高い。私たちは一刻も早く安心したいから「あの人に分かってもらえた」という感覚に満足してしまうのだ。

私はここに、内的対象像と実際の他者とのギャップが常に生まれる素地があると思う。人は相互承認に忙しいために、お互いを「分かった」つもりになってしまい、本当は相手の心は私の想像した姿をしていないという可能性を無視していまいがちである。そしてその結果として相互投影が生じ、したがって相互支配が生じる。他者からわかってもらうことは他者に侵入されることにもつながるのだ。