2022年1月15日土曜日

偽りの記憶 論文化 4

 始まりの部分。

この論考を読む方の多くが臨床に携わる人であることを想定して、次のような問いを掲げよう。

あるクライエントさん(30歳代の女性)がこう話す。「昨日夢を見ましたが、内容は覚えていません。でも何か幼い頃の光景が出てきたように思いました。そして目が覚めてから小さい頃の母親とのエピソードが思い出されました。私は母親に家から出されて、裸足のままドアをたたき続けたんです。あの時の怖さや不安が急にありありと蘇ってきました。」(以上架空の症例の話である。)

よくある心理療法の一コマである。これを聞いた面接者はこの「蘇った記憶」をどのように扱うだろうか?おそらく臨床家によって実に様々な答えが返ってくるであろう。「クライエントさんがそれをはっきりと思い出したというのであれば、実際に起きたことの記憶が想起されたのであろう」「一種のトラウマ記憶であり、フラッシュバックとともに蘇ったのだ」など、この「記憶」の信憑性を重んじる立場もあるだろう。しかし他方では、「これは夢に触発されたものであり、実際にこのようなエピソードがあったのかについてはその保証はない。」「いわゆる偽りの記憶であり、治療者の問いかけ方に影響されて創り出されたのかもしれない。」など疑いの念を抱く治療者もいるだろう。実際にはこのエピソードをどのように受け入れ、扱うかは、現実にこの治療に関わった臨床家ごとに異なるであろうというしかない。つまりこれらのどの立場もありうるというのが現実なのだ。

この様なごくシンプルそうに見える事例を取ってもその扱い方には様々な可能性があるというのが、「蘇った記憶」をめぐる議論の複雑さを示している。本稿での以下の論述も、蘇った記憶に対する画一的な扱いを示すことにはならないが、その「複雑さ」を考える上での参考となり、より臨床的な柔軟性に寄与することになればと願う。