2022年1月14日金曜日

偽りの記憶 論文化 3

 記憶の脳科学と再固定化の問題

蘇った記憶や過誤記憶について理解するにあたり、まず記憶が脳でどのように形成されるかについて論じたい。ただし記憶の問題の解明はまだ始まったばかりであり、かなり仮説的なものも含まれることをお断りしたい。

まずある事柄を覚えている、あるいは想起する、とはどういうことかを考えたい。例えば高校の卒業式のことを私たちは「覚えている」と感じるとする。するとその時体験した様々な事柄、「仰げば尊し~♬」のメロディー、クラスメートとの別れの握手や先生方の顔などが浮かんでくるだろう。それは視覚的情報、聴覚情報、触覚情報などあらゆるものを含む。そしてそれらは脳の様々な部位で蓄えられている。ということは記憶とは脳の様々な個所に保存されている記憶の断片が結びついた状態であることは確かである。

いわゆるニューラルネットワークモデルに従えば、想起とは数多くのニューロンが同時に興奮する現象とみていい。そしてそこで物事の想起が進む過程を説明するのが「連想活性化説 associative activationである。これは記憶とはある事柄からの連想という形で活性化されていくという事だ。ニューラルネットワークをニューロンの網目状の構造と見なし、そのつなぎ目をノード(結び目)と呼ぶ。似た意味を持つノードの間には、強い結びつきがある。そこを伝わって記憶のネットワークが賦活化され、記憶内容が広がっていく。例を挙げよう。私がパリという言葉を思い出すと、昔留学した一年間の出来事がザザーッと流れてくる。そのうちの一つ、例えばパリ滞在中に行ったドイツ旅行のノードについて思い出すと、そこからザザーッと流れ、最初パリをイメージした時には出てこなかったミュンヘンの街角の喫茶店で食べた、生クリームてんこ盛りのケーキのことまで思い出す、というように広がっていくのだ。

このように昔形成された長期記憶は大脳皮質その他の様々な部位に散らばっており、それらが一瞬にして同時に興奮するわけだが、その記憶は最初にどのように形成されたのだろうか。そこで中心的な役割を果たすのが大脳辺縁系にある海馬と扁桃体である。私たちはある出来事を経験し、そこで特に印象に残った記憶は海馬や扁桃体という部分が強く働いてそれを一時的に記憶にとどめる。ではこの一時的な記憶が作られるとはどういうことかを考えるならば、要するにシナプスの間の結びつきが強くなるということだが、そこでは具体的にはタンパク合成が行われる。川の幅を広くするためにはブロックを積み上げるなどの作業が必要であるが、それと同じように脳の場合はタンパク合成によりシナプスの補強を行うわけだ。このことは、ラットにある学習をさせる際にアニソマイシンなどのタンパク質合成阻害薬を投与することで学習が行われないという実験からもわかる。
 さて以上を基礎知識として、最近記憶に関する研究に大きな進歩が起きているので紹介したい。その一つがいわゆる記憶の再固定化の問題である。これは一度記憶された内容が思い出されることで、その記憶がさらに増強されたり、逆に消去されたりするという現象であるが、これについては東大の喜田聡先生のグループの研究が有名である。

ただしこの実験は実はきわめて専門的な知識が必要となるので、少しわかりやすく書き換えたい。喜田グループはPTSDで生じるようなフラッシュバックを伴う記憶がどのように形成されるかを長年にわたって研究してきた。フラッシュバックとはあることを思い出そうとしないのに突然何かのトリガーにより想起されるという現象である。その詳しいメカニズムは十分に分かってはいないが、一つたしかなのは記憶はそれを思い出すという事で一時的に「不安定」になり、そこから増強されるか消去されるかの選択肢が生まれるということだ。比喩を用いるならば、それまで記憶という名のパズルの一つのピースとして治まっていたものが、思い出すことでいったん外れ、その形を変えるのである。そしてトラウマを思い出す時間が短いと、その記憶はよりしっかりと定着し(つまりそのピースはよりしっかりと嵌り直し)、思い出す時間が適度に長いと(例えば10分以上)それは薄れる方向に働く(つまりピースはサイズが小さくなったり、より外れやすくなる)という事だ。実は臨床的にとても大きな意味を持つ。ある種のトラウマ記憶を短時間思い出しただけではそれは消える方向にはいかない。どうせ思い出すなら、安全な環境で3から10分以上思い出す必要があるという事だ。