他者をわかることは、余計誤解すること、そして他者を支配すること
はるか昔の話である。ある時出席していた学会の書籍売り場で私は書店の方と話をしていた。そこには私が出版した本も並べられているので、書店の販売員の方と本の売れ行きなどについて話していたのである。そして私は彼に「なかなか本を書く時間が取れなくて。それに家で机に向かって書いていると、家族がそれをあまり歓迎しないんです。」と少し愚痴をこぼした。すると横で本を物色していたある方が、「家族に反対されるくらいでないと本は書けませんよね」とひとこと言ったのである。「え、そうやってわかってくれる人がいるんだ!」と思って私はその人を振り返ったが、一面識もない人だった。それから言葉を交わすことなく、その人はどこかに行ってしまったが、私はこの時のことをいまだに忘れられない。それはまったく見ず知らずの、私にとっては何もつながりもない人(といってもその人はその学会に属していたはずだから同じ学会員ということにはなるが)がどうしてこれほど私のことをわかってもらえるのだろうと思ったからだ。
この出来事との比較で考えるのであるが、私たちは身近な人(家族など)、あるいは自分を小さいころから育ててくれた人(親など)にはどうして「わかってもらった」と思う体験が比較的少ないのだろうということである。もちろん彼らの理解や協力がないと生きてこられなかったし、これからも生きていけないわけだが、どうして私たちは彼らに対して「わかってもらう(と彼らが思う)ほどわかってもらえない」「わかってもらう(と彼らが思う)ほど誤解される」という矛盾した体験を持つかということが不思議なのだ。特に私が問題にしたいのは母親である。私は思春期以降思い続けていたのは「母親にわかってもらいたくない」という矛盾した願望であった。それで思い出すのであるが、私は若いころ、書いた本を母親に送っていた時期があった。母親は私の幼少時の作文の師匠であった。私が夏休みに作文を書くと、それを仕事の手を休めて読み、大きな丸をいつもくれた、という体験をよく思い出す。私は学校の勉強は特に目立つところがなかったが、作文だけは書くと褒められる、という成功体験を持つことが出来たのだ。その意味で母親は私の恩人である。彼女自身が文章を書くことがとても好きだったということも、少なくともその一部は私に遺伝したと考えるし、それ自身はありがたいことだ。
話を戻すと、私は出版した時は必ず送っていたのだが、ある日母親にこう言われた。
「あまり本を書いてばかりだと体を壊すから気を付けてね。」
はっきり理由は分からないが、私はこの言葉を聞いてから一切本を母親に送ることをやめてしまった。「ああ、やはり母親は全然わかってくれないし、これ以上『わかられ』たくもない」と思ったのだ。母親は今から9年前に亡くなり、私はこの気持ちを結局生前の母親に言う機会はなかったが、言っても仕方のないこと、どうにもならないことが分かっていたし、気が付いた時には病魔に侵されていた母親に言っても困惑するだけだというのは明らかだったからだ。(続く)