なぜ私は母親に知られたくなかったのかについて考え続けている。やはり思春期の到来という事、そして自立という事と関係している。それ以来その様な気持ちを持つようになった。独り立ちするためにはこの嫌悪感は有効に働いていたという事だろう。しかしもう自立したはずの年代、仕事を持ち家庭を持った時期以降もそれが続いていたという所が不思議なのだ。終わらない転移関係のようなものである。結局私は母親を他者として扱っていなかったという事になる(後に詳述)。
これに関係する以下の考えは全く的外れかもしれないが、少し進めてみる。どうせ自由連想だ。私は高校卒業を機に実家を出た後、たまに実家に帰り、母親の視線を浴びるととても不快になったのを覚えている。嘗め回される感じが特に嫌だ。親が子供に強い関心を持っているのはわかる。私もそうだ。しかしそれをまともに浴びるのは、少なくとも私にとってはとても不快な事だった。結局母親に会うと、あっという間に一人の幼い子供にされてしまうという事が不快なのだろうと思う。子供の部分を知られている、小さい頃におむつを変えてもらっていた、それにその人の前で全く無抵抗であった、ある意味では一番弱く無力な時から育てられたという事が関係しているのか。その意味ではどんなに虚勢を張っても(と言っても特にそうしているつもりもないが)その裏を親には見透かされているであろうという感じがする。(「私におむつを替えてもらったくせに、何を偉そうに言ってんの?」)親と大人になってから出会ったなら話は別である。しかしそうではないのだ。私は断りもなくこの世に生まれ、親との関係はそれこそ一方的に出来上がるのだ。それはフェアではない。