2022年1月17日月曜日

偽りの記憶 論文化 6

 この論考を読む方々の多くが臨床に携わっていることを想定して、次のような問いを掲げよう。
 あるクライエントAさん(30歳代の女性)がこう話す。「昨日夢を見ましたが、内容は覚えていません。でも何か幼い頃の光景が出てきたように思いました。そして目が覚めてから小さい頃の母親とのあるエピソードが思い出されました。私は母親に何かの理由で怒られて、家を追い出され、裸足のままドアをたたき続けたんです。あの時の怖さや不安が急に蘇ってきました。」
 心理面接で聞く話としてはさほど珍しくもないであろうが、これを聞いた面接者はこの「蘇った記憶」をどのように扱うだろうか?おそらく臨床家によって実に様々な答えが返ってくるであろう。「Aさんがそれをはっきりと思い出したというのであれば、実際に起きたことの記憶が想起されたのであろう」「一種のトラウマ記憶であり、フラッシュバックとともにその出来事が再現されたのだ」など、この「記憶」の信憑性を重んじる立場もあるだろう。しかし他方では、「このAさんの記憶は夢に触発されたものであり、実際にこのようなエピソードがあったのかについてはその保証はない。」「いわゆる偽りの記憶である可能性があり、治療者の問いかけ方に影響されて創り出されたのかもしれない。」など疑いの念を抱く治療者もいるだろう。実際にはこの様なごくシンプルそうに見える事例を取ってもその扱い方には様々な可能性がある。このようなエピソードをどのように受け入れ、扱うかは、現実にこの治療に関わった臨床家ごとに異なるであろう。ところが「ケースバイケース」で済まされない問題がそこにある。もし母親の虐待的な養育があった場合に、それを偽りの記憶として片づけられたら、それはクライエントにとってのトラウマになりかねない。しかし逆に十分な養育を行っていた母親が虐待していたという可能性を疑われるという事もありうる。以上がこの「蘇った記憶、偽りの記憶」をめぐる議論の複雑さを示している。臨床家ごとの異なる扱いは、しかし恣意的であってはならず、高度な臨床的判断が必要となるのだ。本稿での以下の論述も、Aさんのエピソードをどのように考えるべきかという画一的な扱いを提案することはできないが、その場に置かれた臨床家がより良い判断を下すことが出来るような柔軟性に寄与することが出来ることを願う。