2022年1月19日水曜日

偽りの記憶 論文化 8

 欧米においてはこれらの問題は極めて政治的、ないし感情的な対立を生む。しかしその対立の中で記憶に関するより科学的で実証性のあるデータが得られるようになったことは否めない。少なくともこの偽りの記憶の論争を通して、私たちはこれまで常識として信じられてきたことに含まれる様々な問題を再考する機会を与えられたのである。 

 この偽りの記憶の問題となると決まって引き合いに出させる学者がいる。エリザベス・ロフタスその人である。ロフタスの主張をケッチャムとの著書『抑圧された記憶の神話』(1994)から要約すると以下のようになる。

私は記憶の変更可能性についての権威だとみなされている。私は色々な裁判で証言してきたが、裁判に携わる人にこう警告してきた。「記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる広画面の黒板のようなものであると考えられてきた。比喩的に言うならば、コンピュータ・ディスクや、書類キャビネットに大切に保管されたファイルのような形で記憶が脳のどこかで保持されていると誤解されてきたのである。ところが最近では、記憶は事実と空想の入り混じった創造的産物だと考えるようになった。これが記憶の再構成的モデルと言われるものである。
 
ところでロフタスとワシントン大学は2003年に、ニコル・タウをケーススタディとして扱った2002年の出版物に対し、タウ自身に訴えられたという。その訴訟においてはロフタスに対する21の訴状のうち20は「市民参加に対する戦略的な訴訟」として退けられたという。しかしそれ以後もロフタスの「回復した記憶の理論」は児童虐待の社会的な広がりを軽視したり否定したりする立場として批判され、「幼児と女性に対する犯罪を擁護する学者」として脅迫も相次ぎ、一時期はボディガードを付ける生活も送っていたと言われる(Jenkins)
Jenkins, WJ (2017) An Analysis of Elizabeth F. Loftus's Eyewitness Testimony. Routledge.

ところで常識的な立場からは、ロフタスの主張は概ねその通りであるという事は言えるだろう。記憶はしばしば書き換えられるだけでなく植え付けられることもある。記憶は脳にデータとして保存されているというわけではない。ただし多くの記憶内容は信頼に足るという点も事実である。つまり記憶は概ねにおいて現実を反映しているものの、細部に亘るに従い忘却されたり改変されたりする、というのが真実だ。そして後は程度問題であり、ケースバイケースである。とんでもないあり得ないストーリーを「想起」する人もいるが、それほど高頻度に起きることではない。かと思えばフォトグラフィックメモリーを誇り、教科書を隅から隅まで正確に再現する人もいる。だからロフタスの主張はそれを極論として用いるならばどちらも誤解を招く可能性があるのだ。

筆者はこの問題はどちらにも政治的に巻き込まれることなく客観的に論じたい。その一番の根拠は次のようなことである。
 イノセンスプロジェクトという団体が冤罪の濡れ衣を着せられた人たちを337人ほど釈放させたという。それらの例の少なくとも75パーセントで、誤った記憶が有罪の根拠とされていた。この数字は米国の、それもDNA鑑定が出来た事件に限ったものだという。

私は個人的にはここに含まれる問題は二つあると思う。一つは純粋な過誤記憶、もう一つは自己欺瞞的な過誤記憶である。私たちは「ABかもしれない」を「ABである」に変えてしまう傾向を恐らくデフォルトとして持っている。イノセンスプロジェクトの場合も、二つの場合が共存するのだ。そしてより多く、えん罪の被害者を救うためにも、この蘇った記憶の問題を少しでも明らかにすることは重要なのである。