2022年1月24日月曜日

引き続き 他者性の問題 1

 他者性の問題-相手を分かる、分からない

  将棋の藤井君(恐れ多くもこう呼ばせていただく。ただ年齢がはるかに上というだけで。)が113日の(名人位挑戦者決定予選の)B1総当たり戦の、千田七段との対戦で負けてしまった。私はそれを聞いた時、何か急に自分が衰えたと感じた。体力と気力が低下して、生きるのが少しだけしんどくなったという感覚。実に不思議な現象だ。それだけ私は藤井君や大リーグの大谷くん(恐れ多くも年上だからこう呼ばせていただく)に支えられているのだ。これはいったいどういうことだろう? 
 私にとって藤井君は他者、他人だ。彼にとって私はもっと他人、というより星の数ほどのファンの一人にすぎない。私の藤井ファンとしてのあり方は極めて自己中心的で、彼が将棋が鬼のように強くて、性格的にも好ましいからファンなのだ。私は精神的に彼に寄生させてもらっていて、彼が勝ったら喜び、負けたら落ち込む。彼があまりに負けが混みだしたら、ファンであることがつらくなって、もっと強い人のファンになるのだろう。(ファンの風上にも置けないヤツだ。)
 一つ言えるのは、藤井君は確かに私の心の中に居るということだ。精神分析で言う内的対象、というわけである。それも彼という人間を知っていてイメージをつかんでいる、というのにとどまらない。もっと親密で、彼の幸、不幸と私のそれは同期している(勝手に私がそうしているのである。)例えば「将棋の渡辺くん」という漫画を1巻から4巻までキンドルで購入して読んだ私は、恐らく渡辺明棋士のことをよりよく頭に思い浮かべることが出来て、心の中でより強固なネットワークを形成している。しかし彼が勝っても負けても特に私は心を動かされることがない。ところが藤井君の場合は違うのだ。藤井君の私の心の中における存在の仕方は、渡辺君(恐れ多くも)のそれとは違う。そして内在化、という意味では、藤井君の方がより強固なされ方をそれはかなり重要な意味を持った内的対象なのだ。
 さて私の内的対象としての藤井君と、実在する藤井君とはどう違うのか。これがまた面白いのである。ある意味では実在する藤井君を本当は知らない。外側だけの彼のことを知っている。でも例えば将棋に全く興味のない高校時代の彼のクラスメート、人間臭い(傘をよく忘れるらしい。それにキノコが苦手とも言われている)彼のことを身近に知っている級友が,彼がいかにすごいかを知らなかったりするのだ。「将棋の天才と言われている、でも普通の高校生」と思うだけかもしれない。すると私の方がよほど「彼がいかにすごいか」を知っているという事にもなる。私が遠くにいるのに彼のことをよく知っているという事になる。
 先ほどの「将棋の渡辺君」の話にも通じる。奥さんの伊奈さん(漫画家)は、渡辺棋士のダメダメ部分をすごく分かっている。干支を言えないご主人のことを「あきれた人ね!」というかもしれない。伊奈さんにとって、夫の「すごさ」はある意味ではもう焦点距離の内部に入ってしまい、見えなくなってしまっている。つまり他者はその近くに行けば行くほど分からなくなってしまう所があるのが不思議だ。
 他者のことを知ろうとすると、実はますますわからなくなってしまうという所がある。他者から遠くのところで、遠景で眺めることで「見える」こともある。焦点を結ぶからだ。しかしそれはその他者が関係する様々な現実の一つを切り取って見えることに過ぎない。
 私はウィニコットの力を借りて、他者を一つの主体として遇するべきだと言う。自分のあずかり知らない部分を持った人として扱い、自分の創造の世界で作り上げた、つまり内的対象としての他者をその人そのものと思ってはいけないというわけである。でも本当は私たちは他者を宇宙人として扱うことは実はできないのだ。