2017年4月1日土曜日

トラウマと精神分析 ②

さて精神分析の立場に立つ私としては、少し自省の気持ちを表すことから始めなくてはならない。それは残念ながら、伝統的な精神分析は残念ながら「トラウマ仕様」ではなかった、ということである。簡単に振り返ろう。
フロイトは1897年に「誘惑仮説」を撤回したことから精神分析が成立したという経緯がある。その年の9月にフリースに向けて送った書簡に表された彼の変心は精神分析の成立に大きく寄与していたと言われている。故・小此木先生もそうおっしゃっていた。単純なトラウマ理論ではなく、人間のファンタジーや欲動といった精神内界に分け入ることに意義を見出したことが、フロイトの偉大なところで、それによって事実上精神分析の理論が成立した、と言うことである。この経緯もあり、精神分析理論は少なくともその古典的な立場をとるものにとっては、トラウマという言葉や概念は、ある種の禁句的な要素、ネガティブなニュワンスを負わざるを得なくなった。解離についても同様である。分析はトラウマや解離については、暗点化 scotomize するようになった。つまりあからさまな無視、というのではないが、そこにあっても関心を寄せず、あるいは言及せず、結果として黙殺されたのである。結局黙殺って、一番残確で、しかも私たちが毎日やっていることだよね。自己欺瞞の問題とも深く関係していそうだ。
その後フェレンチによる性的外傷を重視する態度に対しては冷淡であった。これなども驚くべきことである。フロイトが1897年以前に行っていたことをフェレンチは繰り返しただけなのに、彼もまた黙殺、あるいはそれ以上のことをされてしまったのだ。フロイトは同時代人のジャネの解離の概念を軽視した。これも全く同じ理由である。