2017年4月27日木曜日

書評:精神分析における関係性理論 ②

4月17日以来書いていなかった書評を書き終えた。イヤー、勉強になったなあ。
(承前)
 「第3章 関係性理論は心理療法の実践をいかに変えるか――古典的自我心理学と比較して」では、関係論的な枠組みにより治療がどのように変わるかについての具体的な論述がある。それは自由連想や解釈についての基本的な考え方の再考を促す。そこで強調されるのが、古典的精神分析においては「辿り着く唯一の真実」の存在が前提とされるということである。関係論においてはその代わりに、患者の中でいまだ構成されていない、いわば「解離された」自己が問題とされる。フィリップ・ブロンバーグらにより近年提唱されているこの概念は現代の関係論における一つの大きなトピックとなっている。  
 「第4章 精神分析における対象概念についての一考察 ――その臨床的可能性」と「第5章精神分析における時間性についての存在論的考察」は、本書の他の章と多少趣が異なる。両者とも精神病理の学術誌に掲載されたもので、対象の概念、および時間の概念に関するより詳細な理論的考察がなされ、哲学出身の著者の真骨頂ともいえる。第4章の骨子を述べるならば、フロイト自身の理論の変遷の中に、対象概念の変遷が見られたが、それを内在化のプロセスに従って(1)外的対象とは別に(2)内的対象を1,2,3の3種類に分けることが提案される。特にその2番目は、自我機能を一部担った内的対象として、特にボーダーライン水準の患者に見られ、トーマス・オグデンが「半ば自律的な心的機関」と呼ぶものに近づくというが、この議論は臨床的にも非常に興味深い。著者はさらにブロンバーグなどの「対象の多重化の概念」に言及され、対象の概念が関係精神分析で一つの焦点となっている点が示される。
 第5章においてはまずハイデガーの時間論が論じられ、続いてその影響下にあるハンス・レーワルドとロバート・ストロローの議論が登場する。ストロローは自らの体験をもとに、心的な外傷が生む非時間性について論じる。そしてさらなる存在論的時間論を展開する論者として再び登場するのがブロンバーグである。彼はキー概念として自己の多重性、「非直線性」を掲げ、そこでは時間性の病理についても「非直線的な多重の自己状態」と唱える。すなわち自己の非直線性は情緒的外傷をこうむることで自己の中の一貫した歴史から外れた体験として生じる。それが解離された体験とつながるのだ。
 「第6章 関係性と中立性―治療者の立つ所という問題をめぐって」では、詳細な臨床例をもとに、伝統的な精神分析における中核概念としての中立性やエナクトメントについての考察がなされる。ある日筆者はいつも持参するノートを忘れてセッションに臨み、患者がそれを指摘する。そして筆者がそれをあいまいに返したことで患者が「嘘をついた」と咎めるというやり取りが描かれる。そこで筆者は過度に謝罪的にならず、かといって自分を正当化したりもせずに「両価的で葛藤にみちた存在として」患者の前に立ち現れる。そして治療の場を葛藤を内的に扱える能力を育てる場として表現する。筆者はこのかかわりを中立性に代え、あるいはそれを超える関わりとして示しているのである。
 「第7章 行き詰まりと関係性――解釈への抵抗について」でも筆者の症例に基づくきわめて興味深い議論が展開する。本章で考察の対象になるのはエナクトメントであり、最近の関係論的な考えでは治療において何が生じているかを知る上で極めて重要な意味を果たす概念である。筆者はある症例とのかかわりにおいて、「患者が正しい答えをし、治療者は正しい解釈を行う」というエナクトメントを起こしていることに気が付く。そしてその考えを率直に患者に伝えることで治療的な進展が見られたことが報告されている。さらにそもそもエナクトメントが表しているのは、患者と治療者により解離されていた内容であり、その意味ではその内容が意味を持つためにはむしろ必然的に生じてくるという考えが示される。続いて著者はある心の内容が象徴的な理解を逃れている場合、それが具象レベルで外的に表現されるのがエナクトメントであると説明する。それは分析家バスにより「表面の防衛」と呼ばれたものであり、ブロンバーグの解離の議論につながる。ブロンバーグは表象レベルでの変化、すなわち解釈が生じる際にはエナクトメントという現実が必要であり、その際に分析家自身の多重の自己状態の自己開示が意味を持つという。そして解釈は「ブーツのつまみ問題」(説明は略す)をはらんでいるためにそこでの本来役割を果たせないという。
 「第8章 分析家の意図と分析プロセス」では実際の精神分析状況が関係論的な視点からどのように再考されうるかについて論じた章である。そこで基本的に問われるのは、私たちが「理解という誤謬」(レベンソン)にいかに陥りやすいかということを問い、その見地から中立性やブランクスクリーンの概念について、主としてホフマンに依拠しつつ論じる。続いて提示されているケースでは、患者の方が治療者をブランクスクリーンと見立てたという点が特徴的である。すなわちそれは治療者が望ましい治療態度として意図して「処方」したのではなく、患者が治療者をブランクスクリーンとして見立てたというプロセスが取り上げられ、それ自体が臨床素材として扱われる結果となったのである。関係精神分析においてはこのような伝統的な精神分析との逆転現象が生じる。
 「第9章 多元的夢分析の方法に向けて」では、フロイト以来無意識への「王道」と考えられてきた夢分析についての再考が加えられる。ここでは様々な学派から唱えられてきた夢の理論が紹介され、フロイト派において主流であった夢の内容についての分析よりはむしろ、プロセスとしての夢の意味を見出す立場が唱えられる。すなわち夢はそれが語られる文脈からも、特に転移―逆転移のエナクトメントとしても意味を持つのではないかと考えられるようになった。そしてそれは夢を解離された内容として捉えるブロンバーグの理論へ結びつく。この章に盛られている内容は膨大で、読者がそれぞれの立場から読み解いていただくしかないが、そこでは無意識内容が象徴化された形で夢となるというフロイトの定式化は遠い過去になり、夢は「生の知覚データ」(ビオン)、解離された知覚(ブロンバーグ)が意味を付与される現象であるという考え方が紹介されている。夢とはまさに治療状況という文脈において創発されるものであるという構築主義的な視点が意味を持つのである。それに続く臨床例では夢の内容を解釈するというプロセス自体が夢の内容の再現となるという一種の循環が例示され、夢はその全貌が解明されるのではなく、より一層多元的なものとなるという視点が示されている。
 全体としての印象は、その米国での臨床家としての豊富な経験から関係精神分析を概説した、極めて優れた書であるということである。著者は特に関係学派のリーダーの一人ともいえるブロンバーグからの影響が見て取られ、著者が訳したブロンバーグの「関係するこころ」(誠信書房、2014年)の参照も薦められるであろう。
 私が個人的に知る筆者は臨床能力に優れ、しかも英語はネイティブ並みながら極めて温厚な人柄で頼もしい限りである。将来日本の精神分析界を牽引していく存在であることは言うまでもなく、その存在感を示す意味を持った良書と言える。