(承前)
その数年前の話を少し書いてみたい。
ある日お彼岸を過ぎた日曜日に妻と一緒に父親を訪ねた。場所はアクアラインを渡って遠くないため、渋滞に見舞われなければ一時間足らずでいくことが出来る。(運悪く渋滞に巻きこまれると…4時間、ということがかつてあった。)部屋を訪れると、父はいつにもましてぼんやりしているようであった。父は私と妻に座るところを作ってくれるということもなく、ベットの横に父親と並んで座る、というスペースもなく、なんとなく所在げなく時間が流れた。
すると妻がテレビ台の下をゴソゴソ探して碁盤を見つけたのである。どうやらホームの各部屋に備え付けられていたらしい十三面板であり、碁石の袋の封も切っていない代物だった。十三面とは、正式な碁盤(19×19の碁盤の目)よりかなり小ぶりの盤である。対局時間も通常の碁盤よりかなり短く決着がつく。しかし老化が進んでいる父親は、あれだけ囲碁好きなのに自分の部屋のテレビ台の奥に手つかずの碁盤が眠っていることを知らなかったらしい。そこで取り出して、安物の碁石を紙の箱に入れて碁笥代わりにし、ベッドの上に置くと、父はすでに対局してくれるらしい。それまで恍惚状態だったのが、少し意識が覚醒したらしいのだが、さっそく黒石を持って星目の一つに置こうとするので、さすがに私が遮った。後で述べるが、父は相当の碁打ちである。往年はアマ五段くらいまでは打った人だ。通常は下手が黒石を持ち、先手を打つ。アマ五級程度のヘボ碁の私が白を持つことなどあり得ない。そこで私が黒石を隅の星に打つと、父は別の星に打つ。急にスイッチが入ったかのように、背筋を伸ばして、父は碁を私と始めたのだ。ただし父は手が震えるし、石をきちんと線の交差部分に乗せないから見づらくてしょうがない。そこで私が手を伸ばして父の置いた石をちゃんと置きなおすと、父はそれを私が手を打ったのと勘違いし、自分の白石を置こうとする。私があわてて制止する。こうして怪しい感じで二人の碁は進んでいった。