精神分析の祖としてのフロイトの人生をたどると、彼が確立した分析理論とは大きく異なる文脈が見えてくる。それは精神分析の理論を確立し、発展させていくプロセスで同時に進行していた、フロイトの自己愛やその傷つきである。それは精神分析理論そのものの中には組み込まれることはなく、むしろことさらに切り離されていた観すらある。ここであらためて問われるべきなのは、「精神分析の祖は自己愛的な人間だったのか?」ということだ。人間フロイトを動かしていたもっとも大きなものは具体的な他者から肯定され認められることであり、その意味で彼の人生は「自己対象」を追い求めていた人生であった。フロイトはまさに「コフート的」な世界に生きていたようである。彼の研究や創作を支えた人々はブロイアー、婚約時代のマルタ、フリース、フェレンチ、ユング、そして娘のアンナであった。彼らは人生の一時期、フロイトの良き聞き役であった。フロイトは彼らに話を聞いてもらい、わかってもらっていると感じる限り、良好な関係を保った。そして彼らがそのような役割を果たせなくなった時は、フロイトは彼らから精神的に遠ざかっていった。もしフロイトがコフート的な治療者を一生持ち続けたら、フロイトの交友関係はもっと安定したものになっていた可能性があるだろうと思う。でもそうなっていたら、二十数巻の全集を生むようなあれほどの多産さを示したかどうかはわからない。
フロイトの人生を考える上で一つの仮説として考えられるのは、彼の人生の後半になり、その自己愛の質が変って行ったのではないか、ということである。結論から言えば、フロイトの自己愛的な欲求は、彼が業績を積み、地位を確立していくにしたがって、私の考える自己愛の第一のタイプから第二のタイプに変わっていったと考えられるのだ。第一のタイプは,話を聞いてもらえるだけでとりあえず満足するような,つまりコフートのいうミラーリングを体験することで満たされるような種類のものである。ここで他者から受け入れて欲しいものは,自分の存在そのもの、と言うことができよう。そして第二のタイプでは,人は自分の存在そのものというよりは、自分を定義するような何か、自分が持っている何かについて見てもらい認めてもらうのだ。つまりこの場合,「わかって欲しい」ものは,自分の持っているもの、自分に属しているもの、と言うことができまる。自分が持っているものイコールファルス、と考えるならば、前者はプリエディパルな内容が扱われ、後者はエディパルな色彩を持つと言えるだろう。
この第一から第二のタイプの自己愛への推移は、フロイトのフリースとの関係とユングとの関係の違いに顕著に表れているといえるであろう。フリースはおそらくフロイトが第一のタイプの自己愛を満たすための相談相手であったのに対して、ユングはフロイトの第二のタイプの自己愛に関わっていたのだ。
フロイトの第二のタイプの自己愛の肥大は、精神分析理論の進展の在り方に大きく関与した。1900年代にユングとの関係にのめり込むようになり、さかんに手紙を交わすようになったフロイトは、自分の方が20歳も年上であることもあり、相手に対して自分の説を全面的に受け入れる事を期待し要求するような、絶対的な師弟関係を求めるようになる。そしてフロイトは自分の説に関してはかなり頑なで、融通が利かなくなっていった。これはむしろ自分がこれまで積み上げた理論や精神分析の組織が、自分を取り囲む自己愛的な衣服や鎧のようになり、それを防衛することにエネルギーを注ぐようになったことを意味していたのだ。
ここでナルシシズムの問題が学問の発展を阻むということは実際に生じるのだろうか? おそらくそうであろう。もちろん学問の基本は真実の発見であり、それが研究者の意欲を掻き立て、その成果を公表し、さらなる研究を継続することになる。しかし研究者としての成功が当人のナルシシズムを肥大させていく。フロイトは自分の中に、そして幾人かの患者の中に、父親に対する激しい憎しみと去勢の脅しがあることを発見した。あるいはコフートが「自己対象」の概念に行きついた際には、ある鉱脈をつかんだという感覚があったのであろう。そこには真実の追求への情熱が大きな役割を果たしたことになる。しかし問題はそれが一般化されるプロセスで「自己愛的な過ち」が混入する可能性である。その理論を過剰評価し、それで物事をことごとく説明しようとする。今「偉大なる失敗──天才科学者たちはどう間違えたか」(マリオ リヴィオ著、 千葉敏生訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2017年)という本を読みかけているが、彼らの偉大なる失敗の一部はそこら辺からきているようだ。そしてもちろんそれを発見者のナルシシズムのせいだけにすることはできない。彼らの周りに集まり、学派を形成した弟子たちの手で誤りが継承されることはいくらでもあるからだ。