精神分析の立場からトラウマ理論に対して一種の失望の気持ちを持っていることはこの様な経緯を考えればある程度仕方のないことなのかもしれない。たとえば精神分析家の藤山氏は、以下のように書く。
「・・・プレ・サイコアナリシスというか精神分析以前、「ヒステリー研究」の頃のフロイトの考えでは、患者はどちらかというと環境の犠牲者なんです。これは例えば最近のハーマンなどの外傷をやっている人たちの理論と非常に近いんですね。つまり人間の心の病気というのは、心的外傷に基づいているものだという、そういうことになってしまいます。・・・」
(藤山直樹 集中講義・精神分析(上) 岩崎学術出版社 2008年)
精神分析の立場にもある筆者にはこの藤山の記述も分かる気がする。確かにトラウマを強調することは、ある種の単純化や還元主義に向かう傾向は確かにあるであろう。ただし時代の趨勢としてはトラウマの役割を無視できないということは以下のカンバーグの記述にもうかがえるであろう。
「…私は生まれつきの攻撃性についても曖昧ではなくなってきている。問題は生まれつきの、強烈な攻撃的な情動状態へのなり易さであり、それを複雑にしているのが、攻撃的で回避をさそう情動や組織化された攻撃性を引き起こすようなトラウマ的な体験なのだ。私はよりトラウマに注意を向けるようになったが、それは身体的虐待や性的虐待や、身体的虐待を目撃することが重症のパーソナリティ障害の発達にとって有する重要性についての最近の発見の影響を受けているからだ。つまり私の中では考え方のシフトが起きたのだ…)」。(Kernberg, O.,1995)
カンバーグと言えば、1970年代から80年代にかけて境界パーソナリティ障害についての理論を打ち立て、精神医学界にも大きな影響を与えた人物であるが、その病院論としてはクライン派の理論に基づいた患者の持つ羨望や攻撃性が強調された。そのカンバーグの立場の変化はおそらく精神分析の世界におけるトラウマの意義の再認識が起きていることを象徴しているように思える。