共感と解釈
人は果たして自分のことを知りたいのか?
Hoffmannが次のように述べている。
「最初に私が顕在的な問題について、真摯で幅広い関心を示したならば、潜在的な意味についての共同の探索はしばしばその後にやって来るであろう。しかしそれだけでなく、学習されたものはそれが何であっても、常に生々しく生き残るのである。解釈はその他の種類の相互交流と一緒に煮込まなければ、患者はそれらをまったく噛まないであろうし、ましてや飲み込んだり消化したりしないのである。」
そう、解釈はやさしく伝えられないと人はそれを飲み込めないという。しかしそうだとしたらどうして解釈の重要性がここまで論じられるのだろうか? それに対して一つの答えは次のようなものである。「人は自分のことを知りたいという欲求を持つのだ。」
それはそうかもしれない。が果たして常にそれはその通りなのだろうか?
一つ考えてみよう。人は自分のことを知りたいと思っても、自分の心の姿を知る勇気がどれほどあるだろうか?私はそこに二つの要素を考える。一つは、人は自分の知らないことを知るということの新しさに引かれるということはあるだろう。ということは人は少しその存在を知っていて、あるいは始終指摘されていることについては、新しさがないことからもう知りたくないと思うのだ。そうではなくて、自分が思いもよらないことを伝えられて、驚きたいということがある。しかしいったんそれについて知ると、今度は猛烈な反発が起きてくる。というのはそれはこれまで慣れ親しんだ志向への挑戦を意味し、それに当然のことながらエス抵抗が出て来るからだ。
二つ目は、自分の何が問題になっているかについて、教えてほしいと真剣に考えている場合である。「ふつうに話しているつもりでも人に誤解される、どうしてなのだろう? それを知ることで少しでもコミュニケーション能力を高めたい」という人は、率直な意見や助言を聞きたいだろう。その場合その助言により自分が変わることで、物事がうまく進むという体験を持ったとしたら、それだけ達成感も大きいであろう。この場合もしその助言がそれによって自分を変えることが出来るような性質のものでなかったとしたらどうだろうか?例えばある男性患者が、彼が人づきあいがうまく行かない一つの理由は、人の心を汲み取れるような繊細にかけている、と指摘されたとしよう。そしてそれをどのように改善したらいいかと問うた場合に、「残念ながらそれはあなたには欠けた能力であり、それを獲得することは難しいでしょう」と言われたとする。もちろん彼はその自分にかけた能力を補うためにはどのような工夫をしたらいいかと考えるかもしれない。しかし「自分はダメなんだ」と思うことでもうカウンセリングに通うモティベーションをなくしてしまうかもしれない。