先日4月20日は父親の命日だが、久しぶりに墓参りをしていろいろ思い出すことがあった。父親は数年前のこの日の早朝に突然亡くなったが、もう90歳近くでかなり老衰が進んでいた。(この時は故人の強い遺志で完全密葬にしたので、実はどなたにも公表しなかった。)
亡くなる2,3年前は、かなり認知能力が低下し、ときどきホームを訪れても、かろうじて私が自分の息子であることは認知できるようであるが、一緒についてくる妻についてはよくわかっていないようだった。一度私の息子(父にとっては孫である)と部屋を訪れたときには、息子の顔をまじまじと見て、「カミさんかい?」と尋ね、私は愕然としてしまった。老衰とはこういうものかと少しショックであった。その後も年に3,4回は訪れていたが、父親も見当違いな受け答えしかせずに、また狭いホームの部屋には椅子もなく、なんとなく所在無げに過ごして早々に帰ってきてしまうということが続いていた。
実は私には一つ長年かなえたい希望があった。父親と囲碁の対局をしたかったのである。しかし目に見えて衰えていく父を見ているとそんなことを言い出せないでいたのである。そこで30年以上も囲碁の相手をしてもらうことが出来ないでいたのだ。もう当の昔に今日の日付すら分からなくなっている父親に囲碁を打てる力は残っているとは考えられなかったし、それを確かめるのも悪いような気がしていた。
なぜ父親の死と囲碁の話が出てくるかというと、それが父親の死とかなり深く関係していたからだ。少なくとも私の中では。 (つづく)