2017年4月16日日曜日

脳科学と精神分析 推敲 ③

 富樫の論文(2011)は我が国においてこの問題について精神分析の観点から論じた本格的なものである。その中で富樫は、従来の分析においては、治療者と患者の関係を一つの閉鎖系と見なし、そこで生じたことがことごとく転移の反映としてみなす傾向を促す点を指摘する。しかし実際は治療関係とは開放系であり、そこに様々な系とのインターラクションが起き、また治療中に起きた出来事と患者の言動との因果関係は予測不能となる。ただし複雑系として物事を見ることは、何も確かなことはわからなくなるという悲観的な見方を促すのではなく、むしろそこで新しい現実を見る力を養うことを意味する。富樫も非線形性や複雑系理論は、治療者の感性を根本から変えるという点を指摘する。
 富樫公一(2011)関係精神分析と複雑系の理論 岡野ほか著 関係精神分析入門―治療体験のリアリティを求めて 岩崎学術出版社、第13章

 これまで見たように、非線形性の理論は従来の精神分析的な枠組みを描き出すことに最も力を発揮する印象があるが、将来の精神分析的な治療の在り方にはきわめて大きな可能性を開いているように思う。従来の分析的な伝統や枠組みにとらわれる根拠が乏しくなると同時に、治療として役立つ可能性のある介入の幅はそれだけ広がることになる。
 私は個人的には治療関係の在り方は二つの複雑系の間の交流であり、互いの言動や無意識的レベルでのメッセージが互いに影響を及ぼし合う、一種の「ディープラーニング」のプロセスであると考えられる。そしてそこでの治療者の言葉はどのように患者に伝わり、受け取られるかは基本的には不可知である。そしてそこには治療者の解釈的な介入をも含む。治療者はある種の解釈的な介入を行った際は、それにより患者の心に何が起きているかについての注意深さや、それについての積極的な問いかけを必要としているであろう。治療者は受け身的に患者の自由連想に任せるだけでは済まなくなっていくのである。
 さらにそこでの治療者の解釈も、その意味合いは大きく異なることになる。治療者は患者の言動の裏にある無意識的な動機について気が付くかもしれない。そしてその気づきの信憑性や妥当性については、おそらくそれを保証するものはきわめて限られていることになる。なぜなら患者の言動の意味もまた不可知的だからである。治療者は自らの解釈がいかに自らの主観に由来するかということを理解しておかなくてはならない。
 治療者の主観性と述べたが、おそらくそこで治療者が自信を持って用いることが出来るのは、患者の連想に対する主観的な反応なのである。それは治療者が自らに正直であるならば、おのずからわかる一次資料なのである。それを必要に応じて用いていくという作業しかないであろう。そこでは実は解釈も主観的な反応に含まれる。患者の言葉にある背後の意図を感じ取る。その真偽はともかくそれは紛れもなく主観的な体験なのである。そしてそれはきわめて注意深く、あくまでも仮説的に検証されなくてはならないのである。