2017年4月22日土曜日

共感と解釈 ②

10日ぶりのこのテーマだ。誰も覚えていない(読んでいない?)だろう。

私が以上の論述から何を言いたいのか? おそらく私たちが治療の目標としてしばしば掲げる「自分をもう少し知りたい」は、きわめて条件付きということである。そして「自分をより知ること」を治療の第一の目標として掲げることをやめる時、私たちのカウンセリングや精神療法に対する考え方は振り出しに戻るということだ。

精神療法とは何をするところなのか?
 
ここまで戻ることをお許し願いたい。実は精神療法とは何をするところなのか、というテーマはとても奥が深い。おそらく誰もこれを定義することが出来ないであろうし、それは精神療法ないしはカウンセリングという立場で実に様々なことが生じているということを表している。セラピストとクライエントが一定の時間言葉を交わし、料金が支払われる。そしてクライエントが再びセラピストが訪れる意欲や動機を持ち続ける限りはそのプロセスは継続していく。そしてその動機が継続していく限りは、非倫理的なこと(たとえばセッション中の逢引)、あるいは通常の精神療法で生じること以外のこと(たとえば囲碁や将棋に興じる、マッサージを施す、家庭教師をするなど)が起きていない限りは、それは精神療法として成立するのである。
 そこでなぜ治療に通うだけのモティベーションが維持されるのかを考える。実は私は「自分を知りたいから」を一般的な動機からすでに除外しておいてある。それ以外を考えよう。私は二つを提案したい。
1 自分の話を聞いてもらい、分かってもらえたという感覚を持つこと。
2 自分の体験に関して説明をしてもらうこと。
 他にもあるかもしれないが、これら二つはおそらく最も重要な位置を占めるだろう。1.に関しては、人が自分という存在を認めてもらいたいという強烈な自己愛的な欲求と結びついている。私たちはどうして体験を人に話したいのか? 悩みを聞いてほしいのか? 何か面白い体験をした時に人に話したくなるのか? すべてがこの1に関係している。時にはこれだけで精神療法が成立しているのではないかと思うこともある。しかしそれだけではないだろう。