2017年4月10日月曜日

どのように精神分析を・・・ ②

もっと長いGIFアニメを発見した。
(セルオートマトンの変遷)

もう一つの例。これはこのとんでもない原則を自己愛から説明する要理はもう少しわかりやすいような気がします。精神分析理論は、基本的には分析家の知的な好奇心の満足、「わかった」という感覚と分かちがたく結びついているのです。分析家が患者を助けたいと願っており、それが彼を分析的な治療に向かわせる最も大きな理由だったとしましょう。それはそれで素晴らしいことだと思います。ただし人間の活動は純粋に愛他的なものはおそらくほとんど考えられず、ウィンウィンがせいぜいですから、自分の様々な満足が、患者の利益と連動しているということが彼が分析治療を行うことを選ぶ最大のモティベーションとなっているとしましょう。それはこの上なく望ましいことです。たいていの人間はその域にまで達していません。自分のことを優先して考え、せいぜい相手の害にならないことを願うというのが精いっぱいではないでしょうか? そしてそのような治療者の行った治療が患者の改善につながらなかったとしたら、彼はどうするでしょうか? 彼は失望をするでしょうが、おそらくその体験から学ぼうとし、それを理屈付け、分かったという感覚だけは持ちたいでしょう。もうしそうでなければ、それまでの彼の努力は何だったでしょうか? こうして彼はその治療の失敗をあまり強調せず、改善した部分を膨らませて論文を書くかもしれません。倫理的にはとんでもないことでしょうが、しばしば起こってしまうことでしょう。 
このことは理科系の研究者のことを考えればよりわかりやすいでしょう。ある仮説を立てて、それを検証すべく研究を行う。研究には莫大な労力とお金が要ります。そしてその研究に思うような成果が伴わなければ、それに費やした時間とお金は水泡に帰してしまいます。それを回避する数少ない方法がデータの改竄であり、超一流の頭脳を備えた人間でも時にはこの誘惑に負けてしまうのです。
しかし臨床においてはそれを回避すべく様々な道が用意されています。それはその事態を理論づけ、理解する(したつもりになる)ことです。

私はこのようなことを知るにしたがって、どうして精神分析の理論と実際がこんなに違うのかが少しわかるようになってきました。