2017年4月21日金曜日

トラウマと精神分析 ①

トラウマと精神分析

抄録
精神分析という世界の内側にいると、分析的なアプローチへの批判や猜疑心だけではなく、期待も聞こえてくる。トラウマに対する治療に関する精神分析への期待とは、「トラウマを扱うだけでなく、より深層からアプローチし、洞察を求 める」ことになろう。そして精神分析を専門的に用いる治療者にも、多くの場合はそのような自負ないしは覚悟がある。 このような期待は、精神分析の理論が時は非常に複雑かつ難解で、そのトレーニングシステムも複雑かつ重層的であり、 その分深遠に映ることにも起因しているであろう。しかし精神分析の内部に身をおく立場としては、「洞察を求める」というプロセスや手続き自体が決して明快ではなく、 また容易ではないという事実の認識がある。無意識の探求とは、フロイトが想定していたものとは異なり、まさに海図のない航海と形容すべきものである。また「洞察を求める」ことは理想的には「トラウマを扱う」ことの先にあり、両者は 深く結びついているはずなのであるが、実はこの両方のアプローチは微妙に矛盾し、齟齬をきたす可能性がある。その根 底には、伝統的な精神分析の基本方針は、トラウマを扱う基本的な仕様を備えていなかったという事情がある。  本発表ではこのような背景を踏まえて、トラウマ治療における「共通因子」の問題について精神分析の立場から論じた。

はじめに
 筆者は精神分析家としてのこれまでの精神分析学会での活動のほかに、トラウマティック・ストレス学会での活動も行ってきた。そこで両方の学会に属する臨床家の声を聴くことが多いが、一つ印象的なことは、トラウマを治療する人々から精神分析に「期待」には以下のようなものが聞かれることである(岡野、2016)。

  • 精神分析はトラウマに起因する症状よりもより深層にアプローチし、洞察に至るものである。
  • トラウマに関連した症状が扱われた後に本格的に必要となるプロセスである。
  • 患者の持つパーソナリティ傾向に働きかける用意がある。
  • 精神分析のトレーニングを経た治療者が、特権的にその治療を行う事が出来る。
 これらの期待は現在の精神分析に向けられうるのだろうか? その疑問を胸にこの論述を始めたい。

伝統的な精神分析とトラウマ理論


 さて精神分析家としての私としては、多少なりとも自戒の気持ちを持って次の点を明らかにしなくてはならない。それは伝統的な精神分析は残念ながら「トラウマ仕様」ではなかった、ということである。すなわちトラウマを経験した患者に対して治療を行う論理的な素地を十分に有していてなかったということだ。それを説明するうえで、精神分析の歴史を簡単に振り返る必要がある。
 フロイトは1897年に「誘惑仮説」を撤回したことから精神分析が成立したという経緯がある。その年の9月にフリースに向けて送った書簡(マッソン編、2001年)に表された彼の変心は精神分析の成立に大きく寄与していたと言われている。単純なトラウマ理論ではなく、人間のファンタジーや欲動といった精神内界に分け入ることに意義を見出したことが、フロイトの偉大なところで、それによって事実上精神分析の理論が成立した、と言うことである。この経緯もあり、精神分析理論は少なくともその古典的な立場をとるものにとっては、トラウマという言葉や概念は、ある種の禁句的な要素、ネガティブなニュワンスを負わざるを得なくなった。
 その後フェレンチによる性的外傷を重視する態度に対しては冷淡であった。これなども驚くべきことである。フロイトが1897年以前に行っていたことをフェレンチは繰り返しただけなのに、彼もまた黙殺、あるいはそれ以上のことをされてしまったのだ(Masson, 1984)。フロイトは同時代人のジャネの解離の概念を軽視した。これも全く同じ理由である。


岡野憲一郎:トラウマの心理療法で共通因子を探る―精神分析の立場から(シンポジウム:トラウマの心理療法)日本トラウマティック・ストレス学会総会第15回大会 (2016年5月20日 仙台国際センター)
J.M.マッソン 編 河田 晃 訳 フロイト フリースへの手紙 1887-1904 誠信書房, 2001年
Masson, JM The Assault on Truth: Freud's Suppression of the Seduction Theory (Farrar, Straus and Giroux、1984