2024年8月31日土曜日

統合論と「解離能」2

  結局このISSTDのガイドラインを読む限りは、integration と fusion の決定的な違いは出てこない。そもそも Kluft 先生が次のように書いている(として引用されている)からこれは変えようがないのだ。 

「治療の帰結として最も安定しているのは final fusion (最終的な融合)ーcomplete integrtion (完全なる統合)であるが、そこまでに至ることが出来ない・あるいはそれが望ましくない患者がかなり多い。」「この最終的な融合の障害となるものは、たとえば併存症や高齢である」(G133.)

つまりこの言い方からして、integration = fusion なのである。そしてガイドラインでは次のように述べる。「つまり一部の患者にとっては、より現実的な長期的な帰結は、resolution (解決、とでも訳すのだろうか?)という、協力的な仕組み cooperative arrangement であるという。それは最善の機能を達成するために、交代人格たちの間で十分に統合され、協調された機能である sufficiently integrated and coordinated functioning among alternate identities to promote optimal functioning.」(G134).(機能、という言葉がダブっているが、原文ですでにダブっているのだ)。そして治療によりこの最終的な融合に至るのは、16.7~33%であるとも書いてある。


ちなみにこのfusion という言葉をHowell 先生のテキストの中に探してみた。ところがこれが出てこないのである。その代わりに出てくるのが、conextualization 文脈化という概念だ。そしてこれは例のPutnam のdiscrete behavioral states (DBS)の概念と密接にかかわっている。今度はこのHowell 先生の説に耳を傾けてみよう。


2024年8月30日金曜日

記憶の抑制に意味はあるのか? 1

 記憶や感情を抑えることの是非、というテーマは、トラウマ治療では常に問われている問題だ。トラウマを直接扱うべきか否か、という問題はトラウマの治療にとって極めて重要でかつ日常的な問題なのである。そしてこれに関しては二つの考え方が対立する形で存在する。 先ず感情は扱わないに越したことがないという立場としては、例えばマインドフルネス瞑想などが挙げられるかもしれない。マインドフルネスにおいては自分の呼吸への集中、あるいは居心地のいい場所にいるイメージなど、ニュートラルなテーマに留まるトレーニングであるが、その根幹部分はそこから離れた場合に元に戻すという手続きである。私はこれをいわゆるDMN(デフォルトモードネットワーク)への回帰というプロセスと同類と見ているが、要するに心を何にも注意を向けていないという状態、いわばアイドリング状態に戻すことだ。ちょうど私達が何かを考えている時の視線は、何にも焦点を合わせずに宙を舞うだろう。あれと同じだ。禅の高僧も瞑想によりこの境地に至ることが出来るだろう。 DMNに回帰するだけでなく、何かに集中することにも同様の効果がある。ある外科医は、自らが進行性の癌を宣告されたが、翌日は、昼間の数時間を執刀医としてオペに没頭することでそのことについて考えないように出来たこと助けになったという逸話を書いていた。飲酒などによる酩酊ももちろん薦められるものではないが、似たような効果を生むだろう。

統合論と「解離能」1

 DIDにおける統合とは何か。いまだにこの定義は不明だが、これがDIDの治療において目指すべきものかについては、いまだに不明な点が多い。しかしおそらく人の心理的な機能は正常な統合normal integration を有しているというのがその発端であろう。だからその破綻としてのDIDは当然統合に向かうべきであろうというのが治療方針として掲げられ、おそらくそれを一番推奨したのが Richard Kluftである。ところがそれと別の考え方があり、それは解離能力という考えである。それはもう一つの統合を達成する能力であり、二つ(以上)の心の存在を容認する形であり、それはD.Stern  や P.Bromberg の考えに近いことになる。

その考えに立つと、DIDの治療のガイドラインとして重視すべきISSTDのそれは、Kluft の立場からはかなり変更しているように思える。実際の統合とは何か。それ以外のものがいかに統合という名前で扱われていないか。そのことをいろいろ考えたい。

 ところで統合について言い表す概念が実は複数ある。Integration はまあそのまま「統合」でいいだろう。でも解離がdissociation であることを考えると、association (連合?)というのも当然あり得る。まあ解離の専門書や論文ではあまり見ないが。よく見かけるのは fusion (融合?)。unification (統一?)Unify(統一?)なども見かける。

先ず出発点は本家であるISSTD(国際トラウマ解離研究学会)が2010年に発表した「ガイドライン」から出発しよう。 

 このガイドラインの133頁にこう書いてある。「 integration とfusion は混同され、用いられている」「fusion は二つ以上の交代人格が自分たちが合わさり、主観的な個別性を完全に失う体験を持つことである。最終的な fusion とは患者の自己の感覚が、いくつかのアイデンティティを持つという感覚や、統一された自己という感覚にシフトすることである。Fusion refers to a point in time when two or more alternate identities experience themselves as joining together with a complete loss of subjective separateness. Final fusion refers to the point in time when the patient’s sense of self shifts from that of having multiple identities to that of being a unified self. 」とある。そしてさらに「ガイドライン作成チームのあるメンバーは、初期の fusion と最終的な fusion を区別するために、unification 統一? という言葉を用いるべきだと主張する。」つまりメンバーの間でも意見が分かれたというわけだ。しかしいずれにせよ方向性としては治療は統一、統合に向かうべきという前のめりの姿勢が感じられる。


2024年8月29日木曜日

「希望の在り処」脱稿 4910字

 本書は我が国の関係学派の指導的立場にあり、また対人関係論や関係精神分析に関する貴重な翻訳書(特にスティーブン・ミッチェル、ルイス・アロンなどの著作)を世に送り続けてきた●●先生がご自身の論文をまとめた書である。私(岡野、以下「評者」)にとって嬉しいのは、●●先生(以下「著者」)と同年(1982年)に精神科医となり研修を開始したことである。すなわち著者がたどった精神科医としての道程の時代背景をほぼ共有しているのだ。特に当時は新しかったDSM-Ⅲの流れをもろに受け、BPDの概念にもまれ、やがてトラウマへの関心を深める一方では、米国の関係精神分析に興味を抱き、それが自らの臨床指針を形成していくというプロセスは、私とほぼ同じなのだ。何と頼もしいことだろう。

中略

 第2章「ライ麦畑のつかまえ役ー境界例患者の治療から」も魅力的な章である。書く人間の習性であろうが、評者は学術論文を読む時、「自分にこれが書けるか」ということをよく考える。その上で言えば、私にはこんな素敵なケース報告は決して書けない。もちろんケースそのものが魅力的なのであろうが、それを描写する力もそれに匹敵していることになる。著者がごく若い頃に出会ったケースの治療でありながら、肩の力が抜けていて、そこに文学的な素養やユーモアのセンスが加わり、読むものを楽しませてくれる。

 第3章「『あらかじめ失われた母』の病理」は理論的で難解でもあるが、現代の精神分析において極めて重要なテーマを扱っている。それは母性剥奪、今でいう愛着トラウマの議論であり、それを著者は「あらかじめ失われた母」と呼ぶ。著者は家庭裁判所の調査官の研修を通して知った触法少年たちの事例との関連でこのテーマについて論じるが、そこで理論的な枠組みを提供するのはD.W.ウィニコットである。彼によれば患者の反社会的傾向は「その子供の中の将来への希望が生じてきたことを意味する」というのだ。
 処遇に難渋する触法少年を扱う上での、このウィニコットのオプティミズムには著者がそうであるように同じように救われる思いがする。ただしその治療、ないし処遇は困難を極める。そのことを著者は次のようなウィニコットの引用で語る。[私たちは極度の依存状態下の乳児が適切に持つ経験を、同じような経験を患者に提供しなければなりません」。


中略
 

本書の全体を通して著者らしい肩の力の抜けた臨床スタイルを感じさせる。そして私が常日頃考えていることを保証してくれているようだ。つまり「難しい臨床的な問いへの答えはいつもウィニコットがはるか前に教えてくれていた」ということだ。

 ●●先生の世界に触れることのできる貴重な所として本書を高く評価したい。


2024年8月28日水曜日

希望の在り処 推敲の推敲 2 

 第4章「関係理論から見た対象、主体、間主観性」は理論的でかつ極めて重厚な章だ。筆者が依拠する関係精神分析がフロイト的な精神分析とどのような点で異なるかについて簡潔にまとめられている。筆者はまずフロイトが誘惑説から欲動説に向かったことで、外傷体験(外的出来事)から本能衝動(心的現実)へと関心が向かったとする。このようなフロイト的な視点と対照的な理論がウィニコットにより提示される。ウィニコットの主張をひとことで言えば、欲動の断念には、まずは母親による充足(の錯覚)が施されなくてはならない。脱錯覚はそれから先に生じるプロセスなのだ、とする。このフロイトとウィニコットの視点の違いは驚くばかりである。

 ウィニコットの有名なテーゼ、すなわち「対象は主体によって破壊され、生きのびなくてはならない」は著者によっても取り上げられる。「破壊されながら生き延びる」という意味が特に難しいところだが、著者はこれが治療者側の主体性との関連で論じられる。そしてそれが近年の関係論的な考え方である治療関係の間主観的なあり方の議論に繋がっていることが力説される。筆者を通して、改めてウィニコットの先駆性が確認される章である。


第6章 「自己愛と攻撃性 ―怒りの向こう側にあるもの」は2017年と比較的最近の論文であり、評者にとってなじみ深いテーマに関する論考である。本章で筆者があげているビニエットが私は好きだ。患者は筆者との診察中に入ってきたナースが「すみません」と言って出て行ったことに反応し、「私に向かって言うべきではないか!」と憤慨する。その時筆者はあえて「あなたがないがしろにされて傷ついたのであろう」という解釈を与えなかったという。それがその患者を攻撃しているというニュアンスを与える可能性を考えたからだという。しかしそれから時間が経ち、患者が「私って怒りっぽいですか?」と尋ねた時に、著者はニッコリとしながら「そうだね、怒りっぽいよね」と答え、それが患者の心に入っていった様子を見たという。私は筆者のことを比較的よく知っている方だと思うが、彼が患者と言葉を交わした時の表情が目に浮かぶようだし、それだからうまく色々なニュアンスが相手に伝わったのであろうと思う。怒りについて真正面から取り扱うことに慎重な、二者関係的な怒りの理解もとても参考になった。 


第7章 「つながること、つなげること」で筆者は意識と無意識という、普段はあまり扱わないようなテーマについて論じる。それは本論文が「意識と無意識―臨床の現場から」(人文書院、2006年)という論文集の一章として書かれているからだ。最初から指定されたテーマに向けて書くことも難しさがそこには表れているようだ。著者はこのテーマについて理論的な考察は回避し、臨床上に感じた「つながらなさ」について論じる形で論考を進める。一人は摂食障害の「怜子さん」。彼女は低体重で体を起こすことさえもままならないはずなのに、入院中に同室の患者の持ち物を盗んだらしい。著者は彼女の床頭台からそれを見つけるが、怜子さんは特に動揺を見せず、ただ「知らない」という。筆者は怜子さんの中の「治りたい自分」と「治りたくない自分」の間の「つながらなさ」を感じる。続いて厳しい父親のもとで育った思春期の「太郎君」。父親に気持ちを言えなかった彼が成長し、ある時勉強を強いる父親に暴力を振るう。そのことをたしなめた著者に太郎君は言う。「自分の気持ちを親に表現するように言ったのは先生じゃないか!」それを聞いた著者は「そうだったよな」と思いだし、そして著者は過去には考えていたことと今の考えの「つながらなさ」を実感する。

 著者は抑圧された無意識というフロイトの図式から離れ、矛盾する心のどちらが表層で、どちらがより本質かを考えないようにする。「つながらない」ままで併存する心は、患者のみならず筆者自身にも存在する。臨床的な無意識の表れはそのようなものだ。そして人のこころは浮動性を有し、抑圧モデルとは異なる心の在り方(評者なら「解離的なあり方」と呼びたい)がより自然な無意識の現れ方であるという。

 相変わらずケースの描写はほのぼのとし、そこで解釈による解決を急ぐことなく、患者に寄り添い、時には自分自身に突っ込みを入れつつ一緒に漂っているという雰囲気を感じさせる。

第8章「精神療法における希望の在り処について‐反復強迫からの脱出をめぐって」は本書の表題に呼応する章である。重篤な精神病理を持った思春期女性の治療をめぐる生々しい記録である。筆者は特にAさんとの治療を関係性の反復強迫として理解している。それはフロイトのいうリビドー的な反復ではなく、悪い対象関係の繰り返しという反復である。その理論的な部分、特にフェアバーンの内的精神構造モデルを用いた説明は私には難解でフォローするのが難しかったが、少なくとも著者なりの格闘の跡はうかがえる。たとえば「刺激的な対象である食物・・・に結びついたAのリビドー自我は『食べてしまう自分』として現われ、・・・反リビドー自我は『食べてはいかない』自分として、拒絶的な対象としての食物と結びついて現れた。・・・」と続く。しかしもっと深く分かりたいけれどわからない‥‥というモヤモヤ感が生じるが、それはウィニコットの理論によりかなり払拭される.それは反復を主体の側の活動性の証であり希望とみなす立場である。そしてそのためには治療者はもう一つの主体としての能動性を発揮することが重要となる。第4章と同様、精神療法の希望は著者によってウィニコットのオプティミズムと破壊性を生き延びる治療者の示す能動性として示されているのだ。

 確かにこの治療ではかなり筆者の能動性が発揮されている。入院治療は筆者の転勤により終了する形となるが、その際に筆者は退院して転勤先での外来での治療の継続をAさんに提案する。そして継続されたのはAの攻撃性に晒されながらも辛抱強くそこに居続けた筆者の姿勢である。

しばしば患者は予想ないし説明不可能な過程を経て回復していくものだ。結局は筆者が何が起きてもそこに居続け、関わり続けることに意義がある。そのことを改めて感じさせてくれる章である。この章も全体として著者らしい味がよく出ていると感じる。



2024年8月27日火曜日

希望の在り処 推敲の推敲 1    

 横井公一「精神療法における希望の在り処」(岩崎学術出版社、2023年)

 本書は我が国の対人関係論や関係精神分析に関する貴重な翻訳書(特にスティーブン・ミッチェルの著作)を世に送り続けてきた横井公一先生がご自身の論文をまとめた書である。私にとって嬉しいのは、横井先生(以下「著者」)が評者(岡野)と全く同年(1982年)に精神科医となって研修を開始したということである。だから著者がたどった精神科医としての道程の時代背景をほぼ共有しているのだ。特にDSM-Ⅲの新しい流れをもろに受け、BPDの概念にもまれ、やがてトラウマへの関心を深める一方では、米国の関係精神分析に興味を見出し、それが自らの臨床指針を形成していくというプロセスは、私とほぼ同じなのだ。何と頼もしいことだろう。

 本書はイントロダクションに続く9つの章からなり、最後にコーダ(あとがき)が続く。それぞれの章は古くは1993年(第1章)をはじめとし、最新のものは2017年(第6,9章)に書かれたものを土台にした臨床論文であり、それぞれに読みごたえがある。この30年にわたる論文を通して著者らしさが伝わってくるという意味では、著者は治療者としてのスタイルを早くから作り上げていたということになるだろう。

 イントロダクションの「オデュッセイアの亡霊」は不思議な章だ。著者は2002年の父親の死を切っかけに大学を離れて単科の精神病院に勤務することになる。故郷に残された母親のもとにより繁く帰省するためであるが、そこに母親思いの著者の一面が伺える。そして著者はその慢性病棟での男性患者達とのかかわりを通して、自らの過去を追憶する。「私たちの物語に組み込まれることのなかった過去、私たちが所有できなかった過去は、亡霊のように無意識の中をさまよっています。この亡霊は症状として、振る舞いや身振りとして私たちにその姿を垣間見させます。」というモチーフが語られ、それはフロイトの「過去は想起される代わりに繰り返される」というテーマと反響しあう。著者の文学的な素養をうかがわせる章でもある。

 第1章「自分が自分でいられるために―摂食障害患者の治療から」は摂食障害患者の治療に関する論文をもとにしている。著者はウィニコットの本当の自分と偽りの自分という概念を用いて摂食障害患者の複雑な心の動きの理解に努める。彼女たちは本当の自分にも偽りの自分にも憩うことが出来ない。本当の自分はそれが自分自身にも見えにくいという意味で、偽りの自分はそれ自身の性質として自らにとっての本当の居場所とならないからだ。むろん誰もが本当の自己も偽りの自己も有しているが、恐らく両者の間を揺らぐことでしかそこに居場所を確保できない。しかし彼女たちはその両者のいずれかを居場所としようとしてしあぐね、拒食と過食の両極性のいずれかをかりそめの居場所として選ぶことで、さらに自らを窮地に陥れる。著者が関わった患者Aさん、Bさんの臨床像はいずれも魅力的で、それぞれ別の仕方でその窮地から抜け出す過程はとても興味深い。

 第2章「ライ麦畑のつかまえ役 境界例患者の治療から」も魅力的な章である。書く人間の習性であろうが、私は学術論文を読む時、「自分にこれが書けるか」ということをよく考える。その上で言えば、私にはこんな素敵なケース報告は決して書けないと思う。もちろんケースそのものが魅力的なのであろうが、それを描写する力もそれに匹敵していることになる。著者がごく若い頃に出会ったケースの治療でありながら、肩の力が抜けていて、そこに文学的な素養やユーモアのセンスが加わり、読むものを楽しませてくれる。

 第3章「『あらかじめ失われた母』の病理」は第2章に比べて理論的であり、難解でもあるが、現代の精神分析において極めて重要なテーマを扱っている。それは母性剥奪、今でいう愛着トラウマの議論であり、それを著者はこの母性剝奪の問題を「あらかじめ失われた母」と呼ぶ。著者は家庭裁判所の調査官の研修を通して知った触法少年たちの事例との関連でこのテーマについて論じている。そこで理論的な枠組みを提供するのはD.W.ウィニコットである。彼によれば患者の反社会的傾向は「その子供の中の将来への希望が生じてきたことを意味する」というのだ。処遇に難渋する触法少年を扱う上での、このウィニコットのオプティミズムには評者も著者と同じように救われる思いがする。ただしその治療、ないし処遇は困難を極める。そのことを著者は次のような引用でしめす。[私たちは極度の依存状態下の乳児が適切に持つ経験を、同じような経験を患者に提供しなければなりません」(ウィニコット)。



2024年8月26日月曜日

希望の在り処 推敲 2

 第4章 関係理論から見た対象、主体、間主観性

 これまでとは一変して理論的でかつ極めて重厚な章だ。筆者が依拠する関係精神分析がフロイト的な精神分析とどのような点で異なるかについて簡潔にまとめられている。筆者はまずフロイトが誘惑説から欲動説に向かったことで、外傷体験(外的出来事)から本能衝動(心的現実)へと関心が向かったとする。

  このようなフロイト的な視点と対照的な理論がウィニコットにより提示される。彼の主張をひとことで言えば、欲動の断念には、まずは母親による充足(の錯覚)が施されなくてはならない。脱錯覚はそれから先に生じるプロセスなのだ。このフロイトとウィニコットの視点の違いは驚くばかりである。

 

第6章 自己愛と攻撃性 ―怒りの向こう側にあるもの


  評者にとってなじみ深いテーマに関する論考である。2017年と比較的最近の論文である。私の立場は、成人が体験する怒りのほとんどが「自己愛憤怒」であるというものだ。それ以外で人は簡単に怒ることはないであろうという、少し極端な立場である。もちろん自我境界に侵入された時の怒り等はこれに含まれる。電車で突然足を踏まれた場合などはそうだ。しかし全く偶発的な原因で足を踏まれても、人は別に怒りで反応はしないものだ。それを筆者はどのように見ているのかを教えてくれる。

 本章で筆者があげているビニエットは私が好きなものだ。患者は筆者との診察中に入ってきたナースに反応し、「すみません」と言って出て行った態度について、「私に向かって言うべきではないか!」と憤慨する。その時筆者はあえて「あなたがないがしろにされて傷ついたのであろう」という解釈を与えなかった。それはそれがその患者を攻撃しているというニュアンスを与えたであろうと考えたからだ。しかしそれから時間が経ち、患者が「私って怒りっぽいですか?」と尋ねた時に、ニッコリとしながら「そうだね、怒りっぽいよね」と答え、それが患者の心に入っていった様子を見たというものである。私は筆者のことをよく知っていると思うが、彼がそう言った時の表情が目に浮かぶようだし、それだからうまく色々なニュアンスが相手に伝わったのであろうと思う。ミッチェルによる二者関係的な怒りの理解。参考になった。 


第7章 つながること、つなげること

本書も第3部「つながること」と「つなげること」に入り、最初の章である。 

 筆者は意識と無意識という、普段はあまり考えないテーマについて論じて多少とも戸惑いつつ論じているようであるが、それには理由がある。本論文は「意識と無意識―臨床の現場から」(人文書院、2006年)という題の論文集の一章として書かれているからだ。最初から指定されたテーマに向けて書くことも難しさがそこには表れているようだ。そしてこの章には、「関係論から見た意識と無意識」という副題がついている。
 著者はこのテーマについて理論的な考察は回避し、二つのケースの描写という形で論考が進む。一つは摂食障害の「怜子さん」。彼女は低体重で到底体を起こすこともままならないはずなのに、入院中に同室の患者の持ち物を盗んだらしい。著者は彼女の床頭台からそれが見つかる。彼女は特に動揺を見せず、ただ「知らない」という。筆者は怜子さんの中「直りたい自分」と「治りたくない自分」の間の繋がらなさを感じる。 続いて厳しい父親のもとで育った思春期の「太郎君」。父親に気持ちを言えなかった彼が成長し、ある時勉強を強いる父親に暴力を振るう。そのことを知ってたしなめた著者に太郎君は言う。「自分の気持ちを親に表現するように言ったのは先生じゃないか!」それを聞いた著者は「そうだったよな」と思いだし、そして著者は過去には考えていたことと今の考えの繋がらなさを実感する。

 著者は抑圧された無意識というフロイトの図式から離れ、矛盾する心のどちらが表層で、どちらがより本質かを考えないようにする。矛盾したままで併存する心は、患者のみならず筆者自身にも存在する。それはいわば局所的な無意識としてのあり方であり、それらは別々のところに並んでいる。臨床的な無意識の表れは、そんなものだ。そして人のこころは浮動性を有し、抑圧モデルとは異なる心の在り方を、評者なら解離的なあり方を見せる。それがより自然な無意識の現れ方だ。

 相変わらずケースの描写はほのぼのとし、そこで解釈による解決を急ぐことなく、患者に寄り添い、時には自分自身に突っ込みを入れつつ一緒に漂っているという雰囲気を感じさせる。


第8章 精神療法における希望の在り処について‐反復強迫からの脱出をめぐって


 本書の表題(「精神療法における希望の在りか」)とおなじ題がついている本章は、重篤な精神病理を持った思春期女性の治療をめぐる生々しい記録である。筆者は特にAとの治療を関係性の反復強迫として理解している。それはフロイトのいうリビドー的な反復ではなく、悪い対象関係の繰り返しという反復である。その理論的な部分、特にフェアバーンの内的精神構造モデルを用いた説明は私には難解でフォローするのが難しかったが、少なくとも著者なりの格闘の跡はうかがえる。たとえば「刺激的な対象である食物・・・に結びついたAのリビドー自我は『食べてしまう自分』として現われ、・・・反リビドー自我は『食べてはいかない』自分として、拒絶的な対象としての食物と結びついて現れた。そして『食べてはいけない』自分は激しい攻撃を『食べてしまう』自分に向けていて、『食べなくてはならない』気持ち(Aの中心自我)に寄り添おうとした治療者は『食べてしまう』自分と結びついた刺激的な対象と見なされて、Aの反リビドー自我からの攻撃は治療者に向かって外在化される。」というような説明である。

 もっと深く分かりたいけれどわからない‥‥というモヤモヤ感はウィニコットの理論によりかなり払拭される.それは反復を主体の側の活動性の証であり希望とみなす立場である。そしてそのためには治療者はもう一つの主体としての能動性を発揮することが重要となる。精神療法の希望は著者によってウィニコットのオプティミズムと破壊性を生き延びる治療者の示す能動性として示されている。

 確かにこの治療ではかなり筆者の能動性が発揮されている。入院治療は筆者の転勤により終了する形となるが、その際に筆者はAに退院し、転勤先での外来での治療の継続を提案する。そして継続されたのはAの攻撃性に晒されながらも辛抱強くそこに居続けた筆者の姿勢である。

しばしば患者は予想ないし説明不可能な過程を経て回復していく。結局は筆者が何が起きてもそこに居続け、関わり続ける治療者の存在である。そしてこの治療関係全体を見渡すと、著者らしい味が出ていると感じる。

2024年8月25日日曜日

希望の在り処 推敲 1

 本書(横井公一「精神療法における希望の在り処」(岩崎学術出版社、2023年))は我が国の対人関係論や関係精神分析に関する貴重な訳書(特にスティーブン・ミッチェルの著作)を世に送り続けてきた横井公一先生がご自身の論文をまとめた書である。 「はじめに」にはこの著作がまとまった経緯について書かれているが、私にとって嬉しいのは、横井先生(以下「著者」)が私と全く同年(1982年)に精神科医となって研修を始めたということである。だから著者がたどった精神科医としての道程の時代背景をほぼ共有しているのだ。特にDSM-Ⅲの新しい流れをもろに受け、BPDの概念にもまれ、やがてトラウマへの関心を深める一方では、米国の関係精神分析に興味を見出し、それが自らの臨床指針を形成していくというプロセスは、私とほぼ同じなのだ。何と頼もしいことだろう。  ちなみに本書はイントロダクションに続く9つの章からなり、最後にコーダ(あとがき)が続く。 それぞれの章は古くは1993年(第1章)をはじめとし、最新のものは2017年(第6,9章)に書かれたものを土台にした、臨床素材をもとにした論文であり、それぞれに読みごたえがある。この30年にわたる論文を通して著者らしさが伝わってくるという意味では治療者としての著者はもう早くから今のスタイルを作り上げていたということになるだろう。  イントロダクションの「オデュッセイアの亡霊」は不思議な章だ。著者は2002年の父親の死を切っかけに大学を離れて単科の精神科に勤務することになる。故郷に一人残された母親のもとにより繁く帰省するためであるが、そこでかかわるようになった慢性病棟の男性患者とのかかわりを通して、自らの過去を追憶する。「私たちの物語に組み込まれることのなかった過去、私たちが所有できなかった過去は、亡霊のように無意識の中をさまよっています。この亡霊は症状として、振る舞いや身振りとして私たちにその姿を垣間見させます。」というモチーフが繰り返され、それはフロイトの「過去は想起される代わりに繰り返される」というテーマと反響しあう。著者の円熟味と文学的な素養をうかがわせる章だ。しかも著者は20年前に書いているのだ。

第1章 自分が自分でいられるために―摂食障害患者の治療から

 この章は摂食障害患者の治療に関する論文をもとにしている。著者はウィニコットの本当の自分と偽りの自分という概念を用いて摂食障害患者の複雑な心の動きの理解に努める。彼女たちは本当の自分にも偽りの自分にも憩うことが出来ない。本当の自分はそれが自分自身にも見えにくいという意味で、偽りの自分はそれ自身の性質として自らにとっての本当の居場所とならない。それはそうである。どちらも自らが作り出したものとは言えないからだ。むろん誰もが本当の自己も偽りの自己も有しているが、恐らく両者の間を揺らぐことでしかそこに居場所を確保できない。しかし彼女たちはその両者のいずれかを居場所としようとしてしあぐね、拒食と過食の両極性のいずれかをかりそめの居場所として選ぶことで、さらに自らを窮地に陥れる。著者が関わった患者Aさん、Bさんの臨床像はいずれも魅力的で、それぞれ別の仕方でその窮地から抜け出す過程はとても興味深い。とくにAさんが大学に進学し、精神的な成長を見せ海外に移った過程は心強く思う。

第2章 ライ麦畑のつかまえ役 境界例患者の治療から

 これも魅力的な章である。書く人間の習性であろうが、私は学術論文を読む時、「自分にこれが書けるか」ということをよく考える。もちろん最初から「とてもこんな文章は書けない!」と理解してそれからは不出来な読者に徹することが圧倒的に多いのだが、年齢も仕事も学派も近い著者には一種のライバル意識のようなものを持つ。
 その上で言えば、私にはこんな素敵なケース報告は決して書けないと思う。もちろんケースそのものが魅力的なのであろうが、それを描写する力もそれに匹敵していることになる。著者には私だったら出てしまうような気負いが感じられず、著者がごく若い頃に出会ったケースの治療でありながら、肩の力が抜けていて、そこに文学的な素養やユーモアのセンスが加わり、読むものを楽しませてくれる。

第3章 「あらかじめ失われた母」の病理

 この章は第2章に比べて理論的であり、さほど楽しく読める章ではないが、それだけ勉強になる文章である。そして現代の精神分析において極めて重要なテーマを扱っている。それは母性剥奪、今でいう愛着トラウマの議論であり、それを著者は家庭裁判所の調査官の研修を担当し、その文脈で扱う触法少年たちのケースとの関連で論じている。ここにもウィニコット、そしてクリストファー・ボラスが登場するが、この二人は著者にとって理論的な枠組みを提供する重要な人物であることが分かる。

 著者は特にウィニコットの精神病理の理解について触れている。ウィニコットによれば患者の反社会的傾向は、「その子供の中にあるある種の未来への希望が生じてきたことを意味する」というのだ。あくまでもオプティミスティックなウィニコットの思考を表している。(ちなみに子どもを持たなかったウィニコットは一時かなり反社会傾向の強い子供を預かったが、それにとても苦労したというエピソードを聞いたこともある。触法少年の扱いの難しさを、彼が知らなかったわけでは決してないだろう)

 それに比べてウィニコットの言うカテゴリーⅡの「母性愛欠損」は、先ほどのボラスの「母の秩序の欠損」ということになるが、これが愛着理論のいわゆるD型(未解決型)に相当するとし、それを著者は「あらかじめ失われた母」と呼ぶ。ただしその治療、ないし処遇は困難を極める。なぜなら[私たちは極度の依存状態下の乳児が適切に持つ経験を、同じような経験を患者に提供しなければなりません」(ウィニコット)だからである。

本章は著者が家庭裁判所の調査官への教育を通して関わった触法少年のケースについて、それを精神分析的な立場から理論化した貴重な章と言える。

2024年8月24日土曜日

Male sexual victims 5

 Once I wrote that male sexuality might match the incentive sensitization model (ISM)by Berridge & Robinson (2011)which explains the addictive and obsessive nature of drug addiction.

This theory posits that: 

Rewards are both ‘liked’ and ‘wanted’, and those two words seem almost interchangeable. However, the brain circuitry that mediates the psychological process of ‘wanting’ a particular reward is dissociable from circuitry that mediates the degree to which it is ‘liked’. Incentive salience or ‘wanting’, a form of motivation, is generated by large and robust neural systems that include mesolimbic dopamine. By comparison, ‘liking’, or the actual pleasurable impact of reward consumption, is mediated by smaller and fragile neural systems, and is not dependent on dopamine. The incentive-sensitization theory posits the essence of drug addiction to be excessive amplification specifically of psychological ‘wanting’, especially triggered by cues, without necessarily an amplification of ‘liking’. This is due to long-lasting changes in dopamine-related motivation systems of susceptible individuals, called neural sensitization.(quoted partially from Berridge KC, Robinson TE.2016)


2024年8月23日金曜日

Male sexual victims 4

 Was Kitagawa mentally ill?

 You discussed the issue of grooming which is often seen in child sexual abuse. He proposed a hypothesis that Kitagawa’s incident might represent the hunger for fatherhood seen by Japanese boys. He reminds us that many boys abused by Kitagawa still idealize him or regard him as a God-like figure. Although many of these abused youngsters are deeply traumatized, some of them still like him and think that he is a sort of father figure.

  In reality many of them felt totally confused by the fact that apparently a benevolent and all-giving old person can be so selfish and predatory at the same time. Was he a psychopath whose only purpose was to sexually exploit boys and any of his apparent kindness and care for them was only a façade? Although it might have been the case, I imagine that Kitagawa himself was confused about what he was doing.
  To be more objective, I believe that Kitagawa had a great trouble controlling his sexual impulse and had something close to behavioral addiction. Just in the same way that once honest and hardworking citizen might end up losing his moral sense and does not mind stealing people’s money in order to keep betting in slot machine, Kitagawa did something as hideous as injecting female sex hormone (with his own hands!) to boys in order to keep them physically immature and stay sexually enticing to him. Why is it that men’s sexual behaviors might get out of control to this level? 


2024年8月22日木曜日

Male sexual victims 3

 The issue of “Johnny and Associates” and the problem of  grooming

  You mentioned the incident of Johnny Kitagawa’s sexual victimization in his presentation and it is also my big concern. Kitagawa’s sexual abuse might have started very early on, in 1960’s when he began to gather young boys around him and formed a baseball team, then later, boy bands. His sexual victimization toward young boys spanned for several decades until his death!!
    In 80’s some books were published denouncing Kitagawa’s sexual misconduct.  In 1999, a weekly magazine  “Bunshun” covered this issue for 14 consecutive weeks. In 2000 even this issue was put in front of a special session of the Diet. Johnny’s Associates sued the magazine for libel and many boys and men testified to the involvement of Kitagawa’s in their sexual victimization . In 2003, the Tokyo High Court ruled that the testimony of the boys was credible and found the sexual abuse case to be true. Kitagawa was reported to have said that he was “unable to determine that these boys are telling a lie”. However, the mass media did not cover the story at all and Kitagawa’s sexual abuse remained unchecked, and it eventually continued until his deth in 2019.

 One of the reasons why Kitagawa was not severely punished in the lawsuit in 2003 was because of the problem with the penal code on sex crimes in Japan.  The law for the “crime of rape” was made a century ago (1907) where rape was only defined as sexual assault against women. It was not until in 2017 that the law was changed to “forcible sexual intercourse” which is gender-neutral (men and women can equally be  victims). 


2024年8月21日水曜日

Male sexual victims 2

Although I felt that my pharmacological as well as group approaches were not of any help, I learned a lot throughout these experiences as I realized that I had a lot of misunderstanding about child sexual victimization. Many of these perpetrators targeted boys as their victims, but there is nothing to do with homosexuality. In fact many of them wish to have mature relationships with female partners but they feel inhibited to do so. However, I found that some of them cannot be classified as either hetero- or homosexual, as their sexual interest is uniquely for children of either sex. (please correct me if I still have some misconceptions on this issue.) 

  After my analytic training was over (thank God!)  I came back to Japan and started practicing psychiatry in Tokyo in 2004. I currently deal with many patients with dissociative disorder that I happen to be referred to by many clinicians due to my publications on the topic. Many of these dissociative patients had sexual trauma in their childhood, but some of them do not have any history of it. Rather they were emotionally dominated by their mothers in their childhood and are not allowed to have their own mind, ending up having multiple different personalities. 

   I was very impressed by a young woman who herself was a victim of sexual abuse. She has a male personality who is highly aggressive and attempts to assault a young woman who happens to be one of her best friends. There are so many curious experiences that I would like to talk about, but before I further digress, let me move on. 

  One of the problems that I have in practicing psychiatry in Tokyo is that I have difficulty explaining men’s sexual behaviors  to female victims. Some of them ask me to explain why some of their male bosses, upperclassmen or male friends that they once trusted and respected suddenly turn to make sexual advances or even become sexually aggressive toward them. I will discuss this issue later as it is related to other issues that I would like to ask you about.


2024年8月20日火曜日

Male sexual victims 1

    Thank you very much for your very comprehensive and informative lecture on this very difficult topic; the sexual victimization of men. I learned a great deal from your lecture which also made me reflect on this topic once again from different angles. As a result I came up with many ideas and questions on the issue. Please forgive me if some of them are not  related specifically to the issue of male victims, but to sexual victimization in general.  

My Background

  First of all let me introduce myself and discuss my professional background which might make it easy for you to understand where my ideas and questions come from.
  I spend my formative years as a psychiatrist in the United States for 17 years (1987~2004)where I had initial clinical experiences of victims as well as perpetrators of sexual trauma. While training at the Menninger Hospital to be a psychoanalyst. (I am now a relational psychoanalyst !!)  I worked as a staff psychiatrist at a local state hospital (Topeka State Hospital, now closed down.) 

     In the unit where I worked (Male adolescent and young adult unit), there were several male patients with a history of sexual victimization (themselves perpetrators). I was under the impression that many of them were withdrawn and passive, contrary to what one can imagine. As their treating psychiatrist, I sometimes used SSRIs to capitalize on their side effect of reducing libido in order to suppress their sexual acting out which can occasionally be exhibited toward other inpatients on the unit.

   I once used hormonal injection for “chemical castration” which I hoped can be of help to reduce their acting out potential. One of them tested almost “0” level of testosterone due to the injection, but I was disappointed to learn that he was still showing sexual misconduct on the unit nonetheless.  This made me realize that it is not easy at all to handle this problem of sexual violence both psychologically as well as pharmacologically.
    I also ran a therapeutic group for these male sex offenders for a while, where I learned that this type of group should be managed very carefully in the group setting, as members tend to start bragging about their own tactics of seducing children into sexual interactions.     

2024年8月19日月曜日

希望の在り処 11

 コーダ:故郷への長い旅路

 本書の終章である。ここではここ3,4年のコロナ禍を生きのびた臨床家としての筆者が、診察室を海原を漂う小舟に例えて語る。そこには文学的な香りが高く、私は筆者を詩人のように感じる。そして谷川俊太郎の詩を借りて,私達の生きる現実世界を「真綿みたいな絶望の大量と、鉛みたいな希望の微量が釣り合っている状態」と描く。コロナ禍をようやく乗り切りつつある自分を「いま木漏れ日の中にいる」と表現する。最後にこの著書の制作された経緯を、筆者が所属する今日と精神分析心理療法研究所(KIPP)の出版委員会からの後押しにより実現したとあり、これまでに出会った多くの仲間への謝意が語られる。

 この章もまた筆者らしい章である。日常の臨床活動に主力を注ぐ一方ではスティーブン・ミッチェルとその関係者の著作を日本に広める活動を一貫して続けておられる。その歩みは派手さはあまりないかも知れないが着実でその姿勢は誠実そのものである。だからこそ人生のこの時期に「まるで私に注がれる優しいまなざしのような」木漏れ日に浸る安らぎを得ることが出来たのであろう。筆者の至ったそのような境地を私はとても羨ましく思う。(以下略)


2024年8月18日日曜日

希望の在り処 10

第9章 「つながること」と「つなげること」と「つながりながら浮かび上がること」

 表題からして本書にとって中心となるような章であろう。そして執筆されたのも2017年であり、本書に収められた章の中では最も最近のものである。

 冒頭に描かれた比喩、すなわち対人関係学派は音の伝達などの「近接作用」について論じているのに対し、クライン派の投影や取入れは重力などの「遠隔作用」に近いという比較は興味深い。確かにそう言えるのかもしれない。そしてドネル・スターンの「未構成の経験」を引き、そもそも関係論においては意味は関係性の中から作り上げられるという点が強調される。これはとても重要な点だ。例えば転移の概念を考えよう。患者が治療者に恐れを抱く場合、それは患者が父親に持っていた感情が転移されたものであると考えるとしよう。それはすでにある意味が治療関係でも再現され、繰り返されるということになる。それに比べてスターンの言う関係論的なあり方においては、治療者と患者の間で起きることは予測できず、まさに未知数ということになるであろう。

 本章では改めてミッチェルのいう関係基盤の概念について紹介するが、それは「精神内界領域と対人関係領域の両方を囲い込むような関係基盤の中で作用しているとみなすことである」ということだ。私は関係基盤はむしろ後者の関係領域に関するものだと思っていたので誤解を解いてもらったことになる。ミッチェルは極めて流動的な考え方を持ち、「我々の心は多重的で非連続的でありながら、同時に総合的で連続的な自分自身でもある」(p.179)とする。非連続的で予測不可能であるからこそ、それを一本の理論でまとめ上げることもとても難しくなる。それこそ治療者とどのような出会いがあるかにより、治療はいかようにも異なる道筋をたどることになる。この不可知論的な考え方は関係論の真骨頂であり、また同時にそれが初学者たちを遠ざける理由でもあるだろう。さて筆者は治療作用を3つの相に分ける。本章の核心部分だ。

それらはつながること、つなげること、つながりから浮かび上がることの3相であると言う。

 続いて症例Aさんが登場する。30年ほど前の治療ということは、恐らく筆者のキャリアのかなり初期の頃のケースであろうが、「心的外傷の影響が推察される解離を症状として持つ」というAさんは当時は境界性人格障害として理解し、カーンバーグやマスターソンの力動的理解を参照枠にしつつ、あくまでもAさんの攻撃性や見捨てられ不安と言った、Aさん自身の問題について解釈や直面化を行なったという。

 こうして治療が終わり20年経ってAさんは再び著者の前に現れ、二度目の治療が始まる。そしてより関係精神分析的な考えの馴染んでいた彼は、「患者の思考のパートナーとして、解離されていた自己状態をエナクトメントの中で目撃することによって、その意味を共同構築していくことを試みた」とある。同じケースに対して時を経て変わった著者の治療スタイルの変化が、Aさんとの二回の治療の違いに反映されている。そして二回目の治療で現れたエナクトメントの例が「つながりながら浮かび上がること」の例として生き生きと描かれている。


2024年8月17日土曜日

希望の在り処 9

第8章 精神療法における希望の在り処について‐反復強迫からの脱出をめぐって

 本書の表題(「精神療法における希望の在りか」)とおなじ題がついている本章は、重篤な精神病理を持った思春期女性の治療をめぐる生々しい記録である。患者Aは深刻な摂食障害を有し、著者の勤務する児童青年精神科病棟で、なんと週5回、各一時間の対面での治療を行う。それは1年8か月に及び、その計244回のセッションを通して、筆者は転移関係に巻き込まれ、患者からの激しい攻撃にさらされる。筆者はそれを患者のネガティブな内的対象関係の世界が転移・逆転移関係を通して再演されるプロセスとしてとらえ、英国の対象関係論者フェアバーンやウィニコットの理論を用いつつ解き明かそうと試みる。筆者は特にAとの治療を関係性の反復強迫として理解している。それはフロイトのいうリビドー的な反復ではなく、悪い対象関係の繰り返しという反復である。その理論的な部分、特にフェアバーンの内的精神構造モデルを用いた説明は私には難解でフォローするのが難しかったが、少なくとも著者なりの格闘の跡はうかがえる。たとえば「刺激的な対象である食物・・・に結びついたAのリビドー自我は『食べてしまう自分』として現われ、・・・反リビドー自我は『食べてはいかない』自分として、拒絶的な対象としての食物と結びついて現れた。そして『食べてはいけない』自分は激しい攻撃を『食べてしまう』自分に向けていて、『食べなくてはならない』気持ち(Aの中心自我)に寄り添おうとした治療者は『食べてしまう』自分と結びついた刺激的な対象と見なされて、Aの反リビドー自我からの攻撃は治療者に向かって外在化される。」というような説明である。

 もっと深く分かりたいけれどわからない‥‥というモヤモヤ感はウィニコットの理論によりかなり払拭される.それは反復を主体の側の活動性の証であり希望とみなす立場である。そしてそのためには治療者はもう一つの主体としての能動性を発揮することが重要となる。精神療法の希望は著者によってウィニコットのオプティミズムと破壊性を生き延びる治療者の示す能動性として示されている。

 確かにこの治療ではかなり筆者の能動性が発揮されている。入院治療は筆者の転勤により終了する形となるが、その際に筆者はAに退院し、転勤先での外来での治療の継続を提案する。そして継続されたのはAの攻撃性に晒されながらも辛抱強くそこに居続けた筆者の姿勢である。

しばしば患者は予想ないし説明不可能な過程を経て回復していく。結局は筆者が何が起きてもそこに居続け、関わり続ける治療者の存在である。そしてこの治療関係全体を見渡すと、🔴🔴先生らしい味が出ていると感じる。


2024年8月16日金曜日

希望の在り処 8

 7.つながること、つなげること

本書も第3部「つながること」と「つなげること」に入り、最初の章である。

 

 筆者は意識と無意識という、普段はあまり考えないテーマについて論じて多少とも戸惑いつつ論じているようであるが、それには理由がある。本論文は「意識と無意識―臨床の現場から」(人文書院、2006年)という題の論文集の一章として書かれているからだ。最初から指定されたテーマに向けて書くことも難しさがそこには表れているようだ。そしてこの章には、「関係論から見た意識と無意識」という副題がついている。
 著者はこのテーマについて理論的な考察は回避し、二つのケースの描写という形で論考が進む。一つは摂食障害の「怜子さん」。彼女は低体重で到底体を起こすこともままならないはずなのに、入院中に同室の患者の持ち物を盗んだらしい。彼女の床頭台からそれ
が見つかる。彼女は特に動揺を見せず、ただ「知らない」という。筆者は怜子さんの中の「直りたい自分」と「治りたくない自分」の間の繋がらなさを感じる。 続いて厳しい父親のもとで育った思春期の「太郎君」。父親に気持ちを言えなかった彼が成長し、ある時勉強を強いる父親に暴力を振るう。そのことを知ってたしなめた著者に太郎君は言う。「自分の気持ちを親に表現するように言ったのは先生じゃないか!」それを聞いた著者は「そうだったよな」と思いだし、そして著者は過去に考えていたことと今の考えの繋がらなさを実感する。

 著者は抑圧された無意識というフロイトの図式から離れ、矛盾する心のどちらが表層で、どちらがより本質かを考えないようにする。矛盾したままで併存する心は、患者のみならず筆者自身にも存在する。それはいわば局所的な無意識としてのあり方であり、それらは別々のところに並んでいる。臨床的な無意識の表れは、そんなものだ。そして人のこころは浮動性を有し、抑圧モデルとは異なる心の在り方を、評者なら解離的なあり方を見せる。それがより自然な無意識の現れ方だ。

 相変わらずケースの描写はほのぼのとし、そこで解釈による解決を急ぐことなく、患者に寄り添い、時には自分自身に突っ込みを入れつつ一緒に漂っているという雰囲気を感じさせる。



2024年8月15日木曜日

男性の性被害 4

 米国における男性の性被害

初めに自己紹介をさせていただくならば、私が精神科医として自己形成を行った17年間(1987~2004)は米国で臨床を行ったため、男性の性被害のケースに初めて接したのもその時代でした。私はメニンガークリニックで精神分析のトレーニングを受けつつ,トピーカ市内の州立病院の思春期‐青年期男性病棟の入院患者を扱っていましたが、患者の中には男児に対する性加害を働いた患者さんも何人かいました。私は4,5人の男性の性加害のヒストリーを持つ患者と暫くグループ療法を行ったこともありました。かれらの一部は自らが性的トラウマを体験しており、性格的にはむしろ内気という印象を受けました。SSRIなどの抗うつ剤はリビドーが低下するという副作用があるため、それを使用することで彼らの性的なアクティングアウトをある程度は抑えたことができたことを記憶している。またいわゆる薬物による去勢と称して、毎週女性ホルモンの注射を行い、男性ホルモンのレベルがゼロにまで至った男性患者がいましたが、それでも病棟で隠れて性加害行為を続けていたことが発覚し、改めてこの問題の治療の難しさを実感した。グループ療法でも少し気を抜けば、メンバーたちが自分たちの性癖について語り出し、時には競い合うような雰囲気になりかねずに注意が必要だった。
 そして私にとって一番大きかったのは、性加害について私が持っていた誤解を取り除くことができたことです。例えば彼らの性的な志向が女児だけでなく、しばしば男児にも向けられること、そしてそれは彼らの同性愛傾向を必ずしも意味していなかったということです。現実には小児性愛者の大部分は異性愛者として分類し得ること、ただし彼らの多くは成人を性の対象とすることができず、したがって異性愛とも同性愛とも呼べないという場合が多いこと、などでした。


2024年8月14日水曜日

男性の性被害 3

 ジャニーズ問題の最大の点は、ジャニー喜多川が厳しく罰せられなかったのかという問題である。しかし性犯罪に関する法律は何と1907年(明治時代)より、2017年に改正されるまでは変わっていなかったという。それまでは強姦 rape は対象は女性のみであった!そして2017年に強制性交等罪に代わったが、それも不完全だった。男女を問わなくなったが、これが欧米に比べてとても成立しにくいという事情があった。つまりそこに暴行や脅迫 があったことを証明しなくてはならない。「拒否できなかった」だけでは証拠不十分で成立しないという。(欧米では明確な同意のあるなしが問題となる)また性同意能力年齢は何と13歳からあると考えられていた。つまり 13歳より下なら罪になるが、13歳以降なら同意したということになってしまう。ちなみに諸外国では16歳など、米国では州によっては18歳であり、いわば先進国の中で日本だけが例外であるという。(これも明治時代以来変わっていない。つまりこれは現在でも同じなのである。  しかも性教育は文科省では、中1では妊娠する過程については説明しないとなっている。13歳は教えられていないのに同意できる!!!という不思議な状況。ユネスコだと9~12歳で、妊娠、及び避妊の方法を教えることになっている。(ただし暴行,脅迫がなくても看護者 からの性暴力はいかんとなったのが2017年で、イギリスだと教師、コーチ、雇用主なども入れている。支配的な関係に陥りやすい人。)喜多川はこれに当てはまらないというのだ。何しろ犠牲者は13歳以上、例えば15歳など。彼は性同意年齢に達していた中学生男子を主に狙っていた。そして暴行、脅迫はなく、マッサージから始める。子どもはここで断るとデビューできなくなるとわかっていたから拒否しなかった。合宿所で暴行を受けた。一番厄介なのがこのような関係であろう。  グルーミングgrooming とは性犯罪用語であるというが、もとの意味は動物の毛つくろいであり、信頼関係を築くことに派生している。そして最初はその様な形で関係を結びつつ、最終的には性的な関係に及ぶという行動をさす。つまり最初に「いい人」「優しい人」と信じ込ませれば、それ以降にされたことは愛情や親愛の表れだと思ってしまう。すると最終的には被害者は加害者を守るようになるという。 その流れは次の4段階であるという。 1.観察 挑戦的defiant な子を避け、孤独で悩みを感じやすく、脆弱な子供を選ぶ。 2.物理的、精神的に孤立させる。それが合宿所。それが起きやすいような仕事に就く。 3.信頼させる 秘密を作る、贈り物をする、などの行為。 喜多川の場合は自宅の鍵。 4.身体的に接触することへの抵抗を徐々になくしていく。最初はくすぐり、そのうちマッサージ、ハグ、などと進んでいく。


2024年8月13日火曜日

男性の性被害 2

 ここからは特に男児に対して向けられた性的虐待、ジャニーズ問題に表される虐待にフォーカスを定めたい。私はこの問題を考える際に、以前から気になっていた中田敦氏のユウチューブの動画「ジャニーズと児童虐待」を通して見ることにした。ジャニーズ問題は以前も、たしか2000年前後にも問題になり、裁判にまでなったが、この問題がなぜか最近まで放置されていたのだ。その理由がわからない。そして中田氏の動画がそれを扱っているのを前から知っていたのだ。そしてこの動画を見ることで私が知らなかったことを沢山教えてもらえた。

ちなみにこの中田氏の動画作成の最中の2023年4月には、一斉に民法がこの報道をするようになったという。以下の文章は彼の動画から得られた情報をベースにしている。

 まずBBCが昨年ジャニーズ問題を報道することになった経緯について、そもそもBBCがジミー・サビル氏 Jimmy Savile という国民的な司会者の途轍もない数の性加害問題について、ずっと沈黙をしていたという問題が数年前にあったという。彼の死後(2011)その問題が明らかになったが、サビル氏はBBCに対しても大きな権力を持ち、またイギリス王室にも称賛されていたため、彼のスキャンダルを扱うことがタブーとなっていたことが後に問題になったという。そして最終的にBBCのトップが職を解かれるということにもなった。BBCにはその反省があったという。

 ことの発端は、カウアン岡本氏の、例のガーシー氏との話で語った内容であった。つまり彼が15歳の時からから数年間、十数回にわたりKから性被害を受け、その証拠のビデオも撮り、喜多川の家の合鍵 duplicate key も持たされていたという事実も話されたという。これについて2022年に文春が報道したが、日本のマスコミは当然ながら黙殺した。そこで文春は一計を案じて、外国特派員協会で発表したことでようやく海外でも取り上げられることになったのだ。

 ところでそもそもジャニーズ問題は、たのきんトリオ、少年隊、光GENJI などがデビューして人気を博した1980年代に一部により告発されていた。それらは、1988年の北公次氏による「光GENJIへ」、1989年の中谷良氏による「ジャニーズの逆襲」などであった。特に中谷氏は11歳からKに性的虐待を受けたという。

 1999年は画期的な年であった。週刊文春が何と14週に分けてこの問題を告発したという。そして2000年には国会でもこの問題が取り上げられた。そして10人以上のタレントが告発し、裁判になったのだ。しかし最初は東京地裁で証拠不十分となったという。そこで文春側が控訴し、2003年の東京高裁で喜多川の性的虐待を認定した。それが上告されたが2004年には最高裁が控訴を棄却して刑が確定した。その裁判の過程で喜多川自身が「彼らはうその証言をしたということを、僕は明確には言い難いです。」と、自らが少年達の証言を事実上認めているのである。しかし問題はこの裁判の結果にマスコミが沈黙したということなのだ。つまりジャニーズ事務所への忖度が働き、結局喜多川の性加害は続けられた。結局彼が死去した2019年までその行為は継続していたのである。


2024年8月12日月曜日

男性の性被害 1

 男性の性被害について考えをまとめる必要がある。米国の Richard Gartner 先生がある学会で9月にこのテーマでの講演を行なうが、その指定討論の役を負っているからである。その内容はここでは伝えられないものの、資料となるべきものは沢山ある。その中でいわゆるジャニーズ問題についてまず考えておきたい。  この事件、まずおぞましい限りである。というかこの種のことが実は世界の至る所で起きているということが信じがたい。そしてこのようなことが最近になって表に出るようになってきたとすれば、人類の歴史においてこのようなことが延々と続いていた可能性は非常に高い。そしてその対象が声を上げることが出来ない女性、そして子供達であったことに嘆息する。なぜならそれは立場や力の弱い人々に対して、立場や力の強い人間達が常に行ってきたことと考える以外にないからだ。しかしG先生がこのトピックについて特に取り上げるように、男性に対する性被害は、一般的な身体的な虐待とは別の形で行われるということだ。つまりいわゆるグルーミングと呼ばれるより隠微な形で生じていた可能性があるのだ。  グルーミングでは一方的な加害者、被害者という図式とは多少なりとも異なる点が特徴である。それは一種の(偽りの)愛情表現のニュアンスを含んだものであることが多い。虐待者の多くは「見知らぬ他人」ではなくよく知った教師や先輩、指導者などである。そしてそれは愛情表現のような形をとりながら性的な関りを唐突に含み始めることで、子供の側を混乱させる。  フェレンチがいみじくも言った「言葉の混乱」がそこに生じる。一つは性的な誘因 sexual attraction、もう一つは社会的(家族的)誘因 social (familial) attraction という Mark Erickson に倣った呼び方だ。言葉の混乱はこの二つが混同されるということになり、それを子供は不快に、ないし時には外傷的に体験する。見方を変えれば disssociogenic なストレスとなるだろう。 


2024年8月11日日曜日

希望の在り処 7

 第5章 解離性障害とはどんな障害か

 2000年の論文であるが、評者になじみのテーマである。もちろん筆者が主として依拠する関係精神分析においても重要なテーマである。初めに解離についての簡単な説明があり、それから筆者が経験したであろう事例A,B,Cが掲げられる。Aは包丁による自傷行為を全く記憶していないという解離性健忘の例、Bは入院中にほかの患者が不穏になったことがきっかけで意識消失発作が起きた例、Cは子供の人格のような振る舞いを突然見せた若い主婦の例である。これらの症例をもとにトラウマと解離との関係、解離に関する理論、治療の在り方等についてかなりきめ細かい説明がなされ、著者がこの分野でもかなりの知識と経験をお持ちであることが伺える。


第6章 自己愛と攻撃性 ―怒りの向こう側にあるもの


  これも評者にとってなじみ深いテーマに関する論考である。2017年と比較的最近の論文である。私の立場は、成人が体験する怒りのほとんどが「自己愛憤怒」であるというものだ。それ以外で人は簡単に怒ることはないであろうという、少し極端な立場である。もちろん自我境界に侵入された時の怒り等はこれに含まれる。電車で突然足を踏まれた場合などはそうだ。しかし全く偶発的な原因で足を踏まれても、人は別に怒りで反応はしないものだ。其れを筆者はどのように見ているのか。

 筆者はこの問題についてフロイト、クライン派などに見られる、攻撃性を生得的なものと見る立場と、ウィニコットやサリバンやコフートに見られる反応や防衛としての攻撃性という二つの代表的な見方に触れた後、それを統合するようなミッチェルの見解に触れる。これが私が知りたかったことだが、「ミッチェルは攻撃性についての精神(こころ)と身体性の二分法を、関係性の文脈の内部における弁証法で乗り越えようとしている」とする。ミッチェルは怒りを自己が危機にさらされていることに対する体験から攻撃性が引き起こされると考えているという。それを関係論的に考えるならば、主観的に感知された危機への反応と見なすことが出来、それは治療場面においても体験される心的な現象でもあるとする。それは自己が攻撃を受けるような場面では常に現れ、それは人間存在に付きものの、逃れようのない運命であり、むしろ自己の一部の機能として存在しているという。

 そのあとに筆者があげているビニエットは私が好きなものだ。患者は筆者との診察中に入ってきたナースに反応し、「すみません」と言って出て行った態度について、「私に向かって言うべきではないか!」と憤慨する。その時筆者はあえて「あなたがないがしろにされて傷ついたのであろう」という解釈を与えなかった。それはそれがその患者を攻撃しているというニュアンスを与えたであろうと考えたからだ。しかしそれから時間が経ち、患者が「私って怒りっぽいですか?」と尋ねた時に、ニッコリとしながら「そうだね、怒りっぽいよね」と答え、それが患者の心に入っていった様子を見たというものである。私は筆者のことをよく知っていると思うが、彼がそう言った時の表情が目に浮かぶようだし、それだからうまく色々なニュアンスが相手に伝わったのであろうと思う。ミッチェルによる二者関係的な怒りの理解。参考になった。


2024年8月10日土曜日

希望の在り処 6

 第4章 関係理論から見た対象、主体、間主観性

これまでとは一変して理論的でかつ極めて重厚な章だ。筆者が依拠する関係精神分析がフロイト的な精神分析とどのような点で異なるかについて簡潔にまとめられている。私はこれを読んで改めて多くを学んだ。筆者はまずフロイトが誘惑説から欲動説に向かったことで、外傷体験(外的出来事)から本能衝動(心的現実)へと関心が向かったとする。フロイトはこう言っているのだ。「[対象は]欲動にとって取り換え可能なものであり、もともと欲動に結びついたものではなく、欲動の満足を可能にするためにのみ欲動に組み入れられたもの」(1914年「本能とその変遷)ここら辺がまさに一者心理学的、と言われるゆえんだろう。フロイトは例の孫エルンストによる糸巻き遊びの例を出し、「いないいないばー」を通して子供が得た快楽は、本能の断念の達成によるものだという。つまり糸巻を手繰り寄せた時の「バー」は、母親の回帰ではなく、母親の不在を遊びによって象徴的に達成した喜び、というのだ。(そんな高尚な話だったのか???)そしてそれは分析治療についても当てはまる。治療者は現実の対象として本能の満足を与えてはならない。

 このような視点と対照的な理論がウィニコットにより提示される。彼の主張をひとことで言えば、欲動の断念には、まずは母親による充足(の錯覚)が施されなくてはならない。脱錯覚はそれから先に生じるプロセスなのだ。このフロイトとウィニコットの視点の違いは驚くばかりである。

 ところで治療においては何が起きるのか。それは治療者がその外的対象としての振る舞いを維持しつつ、患者の欲望の充足とは異なる仕方で関わるということだろう。それを既にウィニコットは表現している。以下は筆者の引用を借りる。「対象が主観的なそれから客観的なそれに移行するには、対象は主体によって破壊されなくてはならず、対象はそれを生きのびなくてはならない。そうして生き残った対象を、主体は使用することが出来る。」そしてこの次の部分が凄い。「主体が対象を破壊するのは、対象が主体の全能的なコントロールの領域外に置かれているからであり、別の言い方をすれば、対象の破壊が対象を主体の全能的なコントロールの領域外に置くのである」(ウィニコット 「対象の使用」(1969))

 ここで「破壊されながら生き残る」という意味が特に難しいところだが、こう考えればいいだろう(と筆者は書いているわけではないが)。対象は痛みを覚え、それが表現されることで破壊の事実が明らかになる。しかし対象は怒りでそれを返すことをしない。それを通して主体は対象が自分の行動により痛みを覚えるという意味で「もう一人の自分」であることを、対象からの仕返しによるループに陥ることなく体験するのである。エナクトメントはちょうどそのようなプロセスと考えることが出来るだろう。そこでは治療者が生身の人間であることを隠さず、しかしそれに対して攻撃してくることなく、それを取り上げて論じる姿勢を見せるのである。


2024年8月9日金曜日

希望の在り処 5

   第3章 「あらかじめ失われた母」の病理

 この章は第2章に比べて理論的であり、さほど楽しく読める章ではないが、それだけ勉強になる文章である。そして現代の精神分析において極めて重要なテーマを扱っている。それは母性剥奪、今でいう愛着トラウマの議論であり、それを著者は家庭裁判所の調査官の研修を担当し、その文脈で扱う触法少年たちのケースとの関連で論じている。ここにもウィニコット、そしてクリストファー・ボラスが登場するが、この二人は著者にとって理論的な枠組みを提供する重要な人物であることが分かる。

 まずボラスの言う3つの秩序が紹介される。1.乳児の秩序(夢見る人) 2.母の秩序(連想する人)、3 父の秩序(解釈する人)。最近のある読書から、ボラスはかなり伝統に忠実なフロイディアンであるという印象を持ったが、この理論の立て方もかなりそれを思わせる。1,2がプリエディパル、3がエディパルな段階で扱われる問題、ということになる。そしてこれらはいわば個人に内在する3つの機能として描かれているというのだ。そして著者はドキュメンタリーから採用したケースMの語りを紹介し、2の病理を表しているケースとしています。Mの語りには情緒の色合いが失せ、無機質であり、そこに母性剥奪の病理を見る。そしてMには統合失調症、人格障害、多重人格などの複数の診断が下されているとする。
 さらに著者はこの病理について最近の愛着の理論、特にD型(無秩序型)との関連について論じる。そしてさらにこの病理をウィニコットの言う精神病理のカテゴリー分けに当てはめる。ウィニコットによれば、Ⅰ精神神経症(十分な養育を受けている)、Ⅱ(精神病)母性愛欠損、Ⅲ(ⅠとⅢの中間領域)に分けられる。このうちカテゴリーⅢ、すなわちこれも母性愛欠損がいわば部分的に起き、「はじめは十分によい養育というスタートを切ったが、どこかの時点で環境の側の失敗が起こったり、それが繰り返されたり、長時間続くことがあった人たちのためのカテゴリー」であるとされ、これが触法少年に見られる反社会的傾向に繋がると推測する。さらに興味深いのは、彼らの反社会的傾向は、「その子供の中にあるある種の将来への希望が生じてきたことを意味する」というのだ。あくまでもオプティミスティックなウィニコットの思考を表している。(ちなみに子どもを持たなかったウィニコットは一時かなり反社会傾向の強い子供を預かったが、それにとても苦労したというエピソードを聞いたこともある。触法少年の扱いの難しさを、彼が知らなかったわけでは決してないだろう)

それに比べてウィニコットの言うカテゴリーⅡの「母性愛欠損」は、先ほどのボラスの「母の秩序の欠損」ということになるが、これが愛着理論のいわゆるD型(未解決型)に相当するとし、それを著者は「あらかじめ失われた母」と呼ぶ。ただしその治療、ないし処遇は困難を極める。なぜなら[私たちは極度の依存状態下の乳児が適切に持つ経験を同じような経験を患者に提供しなければなりません」(ウィニコット)だからである。

本章は著者が家庭裁判所の調査官への教育を通して関わった触法少年のケースについて、それを精神分析的な立場から理論化した貴重な章と言える。


2024年8月8日木曜日

希望の在り処 4

第2章 ライ麦畑のつかまえ役 境界例患者の治療から

 とても魅力的な章である。書く人間の習性であろうが、私は学術論文を読む時、「自分にこれが書けるか」ということをよく考える。もちろん最初から「とてもこんな文章は書けない!」と理解してそれからは不出来な読者に徹することが圧倒的に多いのだが、年齢も仕事も学派も近い著者には一種のライバル意識のようなものを持つ。
 その上で言えば、私にはこんな素敵なケース報告は決して書けないと思う。もちろんケースそのものが魅力的なのであろうが、それを描写する力もそれに匹敵していることになる。著者には私だったら出てしまうような気負いが感じられず、著者がごく若い頃に出会ったケースの治療でありながら、肩の力が抜けていて、そこに文学的な素養やユーモアのセンスが加わり、読むものを楽しませてくれる。

 この章に描かれたケースAは「境界例」であるということだが、当時、すなわち1980年代半ばは難しいケースはことごとく境界例として扱われ、理解された時代である。私も沢山の「境界例」と出会った。しかしそれにしてはAの症状は実に多彩である。頻繁に起きる過換気発作以外にも幻聴、離人感、手のしびれ、リストカット、器物破損…今なら解離性障害やCPTSDの診断が下ってもおかしくないかも知れない。
 筆者はこのAとの9年間の関りを4期に分けているが、それを通して著者自身も成長していく様子が描かれている。時には失敗をA自身にたしなめられる。 それを著者は多少自嘲気味に、Aを抱えつつ何度か「落っことしてしまった」と書いている。そしてそのたびにある種の変化が起きたというのである。治療の失敗ともとれる「落っことす」という表現を用いているところが控えめな著者らしいが、そこにはウィニコットを背景にした方針が貫かれている。「A子はこの抱えられてそして壊れないほどに少しずつ落っことされることを必要としていて」とある。ビギナーとしての治療者が「落っことした」体験をそれと自覚し、しかしそれにめげずに治療を続けるということは大変なことである。そしてAもこの筆者の持つ安定性を必要とし、また利用したのであろう。


2024年8月7日水曜日

希望の在り処 3

 第1章 自分が自分でいられるために―摂食障害患者の治療から

 この章は摂食障害患者の治療に関する論文をもとにしている。著者はウィニコットの本当の自分と偽りの自分という概念を用いて摂食障害患者の複雑な心の動きの理解に努める。彼女たちは本当の自分にも偽りの自分にも憩うことが出来ない。本当の自分はそれが自分自身にも見えにくいという意味で、偽りの自分はそれ自身の性質として自らにとっての本当の居場所とならない。それはそうである。どちらも自らが作り出したものとは言えないからだ。むろん誰もが本当の自己も偽りの自己も有しているが、恐らく両者の間を揺らぐことでしかそこに居場所を確保できない。しかし彼女たちはその両者のいずれかを居場所としようとしてしあぐね、拒食と過食の両極性のいずれかをかりそめの居場所として選ぶことで、さらに自らを窮地に陥れる。著者が関わった患者Aさん、Bさんの臨床像はいずれも魅力的で、それぞれ別の仕方でその窮地から抜け出す過程はとても興味深い。とくにAさんが大学に進学し、精神的な成長を見せ海外に移った過程は心強い。


2024年8月6日火曜日

希望の在り処 2

 
イントロダクションの「オデュッセイアの亡霊」は不思議な章だ。氏は父親の死を機に大学を離れて単価の精神科に勤務することになる。故郷に一人残された母親のもとにより繁く帰省するためであるが、そこでかかわるようになった慢性病等の男性患者とのかかわりを通して、自らの過去を追憶する。「私たちの物語に組み込まれることのなかった過去、私たちが所有できなかった過去は、亡霊のように無意識の中をさまよっています。この亡霊は症状として、振る舞いや身振りとしいて私たちにその姿を垣間見させます。」というモチーフが繰り返され、それはフロイトの「過去は想起される代わりに繰り返される」というテーマと反響しあう。氏の文学的な素養をうかがわせ、私と同様に老境に至っている彼の臨床家としての円熟味を感じさせる心温まる文章であるが、これを彼は20年前に書いているのだ。


2024年8月5日月曜日

希望の在り処 1

 とある事情もあり、横井公一先生の「精神療法における希望の在り処」(岩崎学術出版社、2023年)をしばらく読ませていただく。 「はじめに」にはこの著作がまとまった経緯について書かれている。私にとって嬉しいのは、横井先生が私と全く同年(1982年)に精神科医となって研修を始めたということである。だから著者の伝える臨床を始めた環境やその後におかれた次代の流れなどをほぼ共有しているということだ。しかもDSM-Ⅲの流れをもろに受け、BPDの概念にもまれ、やがてトラウマへの関心を深める一方では、米国の関係精神分析に興味を見出し、それが自らの臨床指針を形成していくというプロセスは、私とほぼ同じなのだ。何と頼もしいことか!これから読み進めるのが非常に楽しみである。なお以下は本書の構成である。


イントロダクション オデュッセイアの亡霊


第一部 環境の中に居場所を見つけること

 1 自分が自分で居られるために──摂食障害患者の治療から

 2 ライ麦畑のつかまえ役──境界例患者の治療から

 3 「あらかじめ失われた母」の病理


第二部 関係の中で外傷の意味を理解すること

 4 関係理論からみた対象、主体、間主体性

 5 外傷理論からみた解離性障害の治療

 6 自己愛と攻撃性──怒りの向こう側にあるもの


第三部 「つながること」と「つなげること」

 7 つながること、つなげること──関係論からみた意識と無意識

 8 精神療法における希望の在り処について──反復強迫からの脱出をめぐって

 9 「つながること」と「つなげること」と「つながりながら浮かび上がること」


コーダ

 故郷への長い旅路


 おわりに


2024年8月4日日曜日

PDの臨床教育 最終形

 この論文、あれから色々な間違いが見つかって、推敲の推敲の推敲になり、ようやく完成。最終的に至った図は以下の通り。結局パーソナリティ障害についての勉強にはなったが、引き受ける意味はあったのだろうか。私じゃなくてもだれでも専門の知識があれば書けた論文である。


   DSM-5の特性

  口語的表現(岡野)

      ICD-11の特性

否定的感情 (⇔ 情緒安定性)

マイナスの感情 ⇔

       プラスの感情  

     否定的感情 ( ⇔)    

   離脱  ( ⇔   外向)

                   

 内向き  ⇔  外向き

    離脱       (⇔)

  対立    ( ⇔  同調性)               

反対する ⇔ 同調する

かわりに?
    非社会性  ( ⇔)   

 脱抑制 (⇔  誠実性)                        

衝動的  ⇔  思慮深い 

    脱抑制   ( ⇔)

 精神病性   ( ⇔   透明性)

   

 奇妙  ⇔  明快さ

かわりに? 
      制縛性(強迫性)(⇔)