第3章 「あらかじめ失われた母」の病理
この章は第2章に比べて理論的であり、さほど楽しく読める章ではないが、それだけ勉強になる文章である。そして現代の精神分析において極めて重要なテーマを扱っている。それは母性剥奪、今でいう愛着トラウマの議論であり、それを著者は家庭裁判所の調査官の研修を担当し、その文脈で扱う触法少年たちのケースとの関連で論じている。ここにもウィニコット、そしてクリストファー・ボラスが登場するが、この二人は著者にとって理論的な枠組みを提供する重要な人物であることが分かる。
まずボラスの言う3つの秩序が紹介される。1.乳児の秩序(夢見る人) 2.母の秩序(連想する人)、3 父の秩序(解釈する人)。最近のある読書から、ボラスはかなり伝統に忠実なフロイディアンであるという印象を持ったが、この理論の立て方もかなりそれを思わせる。1,2がプリエディパル、3がエディパルな段階で扱われる問題、ということになる。そしてこれらはいわば個人に内在する3つの機能として描かれているというのだ。そして著者はドキュメンタリーから採用したケースMの語りを紹介し、2の病理を表しているケースとしています。Mの語りには情緒の色合いが失せ、無機質であり、そこに母性剥奪の病理を見る。そしてMには統合失調症、人格障害、多重人格などの複数の診断が下されているとする。
さらに著者はこの病理について最近の愛着の理論、特にD型(無秩序型)との関連について論じる。そしてさらにこの病理をウィニコットの言う精神病理のカテゴリー分けに当てはめる。ウィニコットによれば、Ⅰ精神神経症(十分な養育を受けている)、Ⅱ(精神病)母性愛欠損、Ⅲ(ⅠとⅢの中間領域)に分けられる。このうちカテゴリーⅢ、すなわちこれも母性愛欠損がいわば部分的に起き、「はじめは十分によい養育というスタートを切ったが、どこかの時点で環境の側の失敗が起こったり、それが繰り返されたり、長時間続くことがあった人たちのためのカテゴリー」であるとされ、これが触法少年に見られる反社会的傾向に繋がると推測する。さらに興味深いのは、彼らの反社会的傾向は、「その子供の中にあるある種の将来への希望が生じてきたことを意味する」というのだ。あくまでもオプティミスティックなウィニコットの思考を表している。(ちなみに子どもを持たなかったウィニコットは一時かなり反社会傾向の強い子供を預かったが、それにとても苦労したというエピソードを聞いたこともある。触法少年の扱いの難しさを、彼が知らなかったわけでは決してないだろう)
それに比べてウィニコットの言うカテゴリーⅡの「母性愛欠損」は、先ほどのボラスの「母の秩序の欠損」ということになるが、これが愛着理論のいわゆるD型(未解決型)に相当するとし、それを著者は「あらかじめ失われた母」と呼ぶ。ただしその治療、ないし処遇は困難を極める。なぜなら[私たちは極度の依存状態下の乳児が適切に持つ経験を同じような経験を患者に提供しなければなりません」(ウィニコット)だからである。
本章は著者が家庭裁判所の調査官への教育を通して関わった触法少年のケースについて、それを精神分析的な立場から理論化した貴重な章と言える。