第4章 関係理論から見た対象、主体、間主観性
これまでとは一変して理論的でかつ極めて重厚な章だ。筆者が依拠する関係精神分析がフロイト的な精神分析とどのような点で異なるかについて簡潔にまとめられている。私はこれを読んで改めて多くを学んだ。筆者はまずフロイトが誘惑説から欲動説に向かったことで、外傷体験(外的出来事)から本能衝動(心的現実)へと関心が向かったとする。フロイトはこう言っているのだ。「[対象は]欲動にとって取り換え可能なものであり、もともと欲動に結びついたものではなく、欲動の満足を可能にするためにのみ欲動に組み入れられたもの」(1914年「本能とその変遷)ここら辺がまさに一者心理学的、と言われるゆえんだろう。フロイトは例の孫エルンストによる糸巻き遊びの例を出し、「いないいないばー」を通して子供が得た快楽は、本能の断念の達成によるものだという。つまり糸巻を手繰り寄せた時の「バー」は、母親の回帰ではなく、母親の不在を遊びによって象徴的に達成した喜び、というのだ。(そんな高尚な話だったのか???)そしてそれは分析治療についても当てはまる。治療者は現実の対象として本能の満足を与えてはならない。
このような視点と対照的な理論がウィニコットにより提示される。彼の主張をひとことで言えば、欲動の断念には、まずは母親による充足(の錯覚)が施されなくてはならない。脱錯覚はそれから先に生じるプロセスなのだ。このフロイトとウィニコットの視点の違いは驚くばかりである。
ところで治療においては何が起きるのか。それは治療者がその外的対象としての振る舞いを維持しつつ、患者の欲望の充足とは異なる仕方で関わるということだろう。それを既にウィニコットは表現している。以下は筆者の引用を借りる。「対象が主観的なそれから客観的なそれに移行するには、対象は主体によって破壊されなくてはならず、対象はそれを生きのびなくてはならない。そうして生き残った対象を、主体は使用することが出来る。」そしてこの次の部分が凄い。「主体が対象を破壊するのは、対象が主体の全能的なコントロールの領域外に置かれているからであり、別の言い方をすれば、対象の破壊が対象を主体の全能的なコントロールの領域外に置くのである」(ウィニコット 「対象の使用」(1969))
ここで「破壊されながら生き残る」という意味が特に難しいところだが、こう考えればいいだろう(と筆者は書いているわけではないが)。対象は痛みを覚え、それが表現されることで破壊の事実が明らかになる。しかし対象は怒りでそれを返すことをしない。それを通して主体は対象が自分の行動により痛みを覚えるという意味で「もう一人の自分」であることを、対象からの仕返しによるループに陥ることなく体験するのである。エナクトメントはちょうどそのようなプロセスと考えることが出来るだろう。そこでは治療者が生身の人間であることを隠さず、しかしそれに対して攻撃してくることなく、それを取り上げて論じる姿勢を見せるのである。