第2章 ライ麦畑のつかまえ役 境界例患者の治療から
とても魅力的な章である。書く人間の習性であろうが、私は学術論文を読む時、「自分にこれが書けるか」ということをよく考える。もちろん最初から「とてもこんな文章は書けない!」と理解してそれからは不出来な読者に徹することが圧倒的に多いのだが、年齢も仕事も学派も近い著者には一種のライバル意識のようなものを持つ。
その上で言えば、私にはこんな素敵なケース報告は決して書けないと思う。もちろんケースそのものが魅力的なのであろうが、それを描写する力もそれに匹敵していることになる。著者には私だったら出てしまうような気負いが感じられず、著者がごく若い頃に出会ったケースの治療でありながら、肩の力が抜けていて、そこに文学的な素養やユーモアのセンスが加わり、読むものを楽しませてくれる。
この章に描かれたケースAは「境界例」であるということだが、当時、すなわち1980年代半ばは難しいケースはことごとく境界例として扱われ、理解された時代である。私も沢山の「境界例」と出会った。しかしそれにしてはAの症状は実に多彩である。頻繁に起きる過換気発作以外にも幻聴、離人感、手のしびれ、リストカット、器物破損…今なら解離性障害やCPTSDの診断が下ってもおかしくないかも知れない。
筆者はこのAとの9年間の関りを4期に分けているが、それを通して著者自身も成長していく様子が描かれている。時には失敗をA自身にたしなめられる。 それを著者は多少自嘲気味に、Aを抱えつつ何度か「落っことしてしまった」と書いている。そしてそのたびにある種の変化が起きたというのである。治療の失敗ともとれる「落っことす」という表現を用いているところが控えめな著者らしいが、そこにはウィニコットを背景にした方針が貫かれている。「A子はこの抱えられてそして壊れないほどに少しずつ落っことされることを必要としていて」とある。ビギナーとしての治療者が「落っことした」体験をそれと自覚し、しかしそれにめげずに治療を続けるということは大変なことである。そしてAもこの筆者の持つ安定性を必要とし、また利用したのであろう。