横井公一「精神療法における希望の在り処」(岩崎学術出版社、2023年)
本書は我が国の対人関係論や関係精神分析に関する貴重な翻訳書(特にスティーブン・ミッチェルの著作)を世に送り続けてきた横井公一先生がご自身の論文をまとめた書である。私にとって嬉しいのは、横井先生(以下「著者」)が評者(岡野)と全く同年(1982年)に精神科医となって研修を開始したということである。だから著者がたどった精神科医としての道程の時代背景をほぼ共有しているのだ。特にDSM-Ⅲの新しい流れをもろに受け、BPDの概念にもまれ、やがてトラウマへの関心を深める一方では、米国の関係精神分析に興味を見出し、それが自らの臨床指針を形成していくというプロセスは、私とほぼ同じなのだ。何と頼もしいことだろう。
本書はイントロダクションに続く9つの章からなり、最後にコーダ(あとがき)が続く。それぞれの章は古くは1993年(第1章)をはじめとし、最新のものは2017年(第6,9章)に書かれたものを土台にした臨床論文であり、それぞれに読みごたえがある。この30年にわたる論文を通して著者らしさが伝わってくるという意味では、著者は治療者としてのスタイルを早くから作り上げていたということになるだろう。
イントロダクションの「オデュッセイアの亡霊」は不思議な章だ。著者は2002年の父親の死を切っかけに大学を離れて単科の精神病院に勤務することになる。故郷に残された母親のもとにより繁く帰省するためであるが、そこに母親思いの著者の一面が伺える。そして著者はその慢性病棟での男性患者達とのかかわりを通して、自らの過去を追憶する。「私たちの物語に組み込まれることのなかった過去、私たちが所有できなかった過去は、亡霊のように無意識の中をさまよっています。この亡霊は症状として、振る舞いや身振りとして私たちにその姿を垣間見させます。」というモチーフが語られ、それはフロイトの「過去は想起される代わりに繰り返される」というテーマと反響しあう。著者の文学的な素養をうかがわせる章でもある。
第1章「自分が自分でいられるために―摂食障害患者の治療から」は摂食障害患者の治療に関する論文をもとにしている。著者はウィニコットの本当の自分と偽りの自分という概念を用いて摂食障害患者の複雑な心の動きの理解に努める。彼女たちは本当の自分にも偽りの自分にも憩うことが出来ない。本当の自分はそれが自分自身にも見えにくいという意味で、偽りの自分はそれ自身の性質として自らにとっての本当の居場所とならないからだ。むろん誰もが本当の自己も偽りの自己も有しているが、恐らく両者の間を揺らぐことでしかそこに居場所を確保できない。しかし彼女たちはその両者のいずれかを居場所としようとしてしあぐね、拒食と過食の両極性のいずれかをかりそめの居場所として選ぶことで、さらに自らを窮地に陥れる。著者が関わった患者Aさん、Bさんの臨床像はいずれも魅力的で、それぞれ別の仕方でその窮地から抜け出す過程はとても興味深い。
第2章「ライ麦畑のつかまえ役 境界例患者の治療から」も魅力的な章である。書く人間の習性であろうが、私は学術論文を読む時、「自分にこれが書けるか」ということをよく考える。その上で言えば、私にはこんな素敵なケース報告は決して書けないと思う。もちろんケースそのものが魅力的なのであろうが、それを描写する力もそれに匹敵していることになる。著者がごく若い頃に出会ったケースの治療でありながら、肩の力が抜けていて、そこに文学的な素養やユーモアのセンスが加わり、読むものを楽しませてくれる。
第3章「『あらかじめ失われた母』の病理」は第2章に比べて理論的であり、難解でもあるが、現代の精神分析において極めて重要なテーマを扱っている。それは母性剥奪、今でいう愛着トラウマの議論であり、それを著者はこの母性剝奪の問題を「あらかじめ失われた母」と呼ぶ。著者は家庭裁判所の調査官の研修を通して知った触法少年たちの事例との関連でこのテーマについて論じている。そこで理論的な枠組みを提供するのはD.W.ウィニコットである。彼によれば患者の反社会的傾向は「その子供の中の将来への希望が生じてきたことを意味する」というのだ。処遇に難渋する触法少年を扱う上での、このウィニコットのオプティミズムには評者も著者と同じように救われる思いがする。ただしその治療、ないし処遇は困難を極める。そのことを著者は次のような引用でしめす。[私たちは極度の依存状態下の乳児が適切に持つ経験を、同じような経験を患者に提供しなければなりません」(ウィニコット)。