2024年8月11日日曜日

希望の在り処 7

 第5章 解離性障害とはどんな障害か

 2000年の論文であるが、評者になじみのテーマである。もちろん筆者が主として依拠する関係精神分析においても重要なテーマである。初めに解離についての簡単な説明があり、それから筆者が経験したであろう事例A,B,Cが掲げられる。Aは包丁による自傷行為を全く記憶していないという解離性健忘の例、Bは入院中にほかの患者が不穏になったことがきっかけで意識消失発作が起きた例、Cは子供の人格のような振る舞いを突然見せた若い主婦の例である。これらの症例をもとにトラウマと解離との関係、解離に関する理論、治療の在り方等についてかなりきめ細かい説明がなされ、著者がこの分野でもかなりの知識と経験をお持ちであることが伺える。


第6章 自己愛と攻撃性 ―怒りの向こう側にあるもの


  これも評者にとってなじみ深いテーマに関する論考である。2017年と比較的最近の論文である。私の立場は、成人が体験する怒りのほとんどが「自己愛憤怒」であるというものだ。それ以外で人は簡単に怒ることはないであろうという、少し極端な立場である。もちろん自我境界に侵入された時の怒り等はこれに含まれる。電車で突然足を踏まれた場合などはそうだ。しかし全く偶発的な原因で足を踏まれても、人は別に怒りで反応はしないものだ。其れを筆者はどのように見ているのか。

 筆者はこの問題についてフロイト、クライン派などに見られる、攻撃性を生得的なものと見る立場と、ウィニコットやサリバンやコフートに見られる反応や防衛としての攻撃性という二つの代表的な見方に触れた後、それを統合するようなミッチェルの見解に触れる。これが私が知りたかったことだが、「ミッチェルは攻撃性についての精神(こころ)と身体性の二分法を、関係性の文脈の内部における弁証法で乗り越えようとしている」とする。ミッチェルは怒りを自己が危機にさらされていることに対する体験から攻撃性が引き起こされると考えているという。それを関係論的に考えるならば、主観的に感知された危機への反応と見なすことが出来、それは治療場面においても体験される心的な現象でもあるとする。それは自己が攻撃を受けるような場面では常に現れ、それは人間存在に付きものの、逃れようのない運命であり、むしろ自己の一部の機能として存在しているという。

 そのあとに筆者があげているビニエットは私が好きなものだ。患者は筆者との診察中に入ってきたナースに反応し、「すみません」と言って出て行った態度について、「私に向かって言うべきではないか!」と憤慨する。その時筆者はあえて「あなたがないがしろにされて傷ついたのであろう」という解釈を与えなかった。それはそれがその患者を攻撃しているというニュアンスを与えたであろうと考えたからだ。しかしそれから時間が経ち、患者が「私って怒りっぽいですか?」と尋ねた時に、ニッコリとしながら「そうだね、怒りっぽいよね」と答え、それが患者の心に入っていった様子を見たというものである。私は筆者のことをよく知っていると思うが、彼がそう言った時の表情が目に浮かぶようだし、それだからうまく色々なニュアンスが相手に伝わったのであろうと思う。ミッチェルによる二者関係的な怒りの理解。参考になった。