7.つながること、つなげること
本書も第3部「つながること」と「つなげること」に入り、最初の章である。
筆者は意識と無意識という、普段はあまり考えないテーマについて論じて多少とも戸惑いつつ論じているようであるが、それには理由がある。本論文は「意識と無意識―臨床の現場から」(人文書院、2006年)という題の論文集の一章として書かれているからだ。最初から指定されたテーマに向けて書くことも難しさがそこには表れているようだ。そしてこの章には、「関係論から見た意識と無意識」という副題がついている。
著者はこのテーマについて理論的な考察は回避し、二つのケースの描写という形で論考が進む。一つは摂食障害の「怜子さん」。彼女は低体重で到底体を起こすこともままならないはずなのに、入院中に同室の患者の持ち物を盗んだらしい。彼女の床頭台からそれが見つかる。彼女は特に動揺を見せず、ただ「知らない」という。筆者は怜子さんの中の「直りたい自分」と「治りたくない自分」の間の繋がらなさを感じる。 続いて厳しい父親のもとで育った思春期の「太郎君」。父親に気持ちを言えなかった彼が成長し、ある時勉強を強いる父親に暴力を振るう。そのことを知ってたしなめた著者に太郎君は言う。「自分の気持ちを親に表現するように言ったのは先生じゃないか!」それを聞いた著者は「そうだったよな」と思いだし、そして著者は過去に考えていたことと今の考えの繋がらなさを実感する。
著者は抑圧された無意識というフロイトの図式から離れ、矛盾する心のどちらが表層で、どちらがより本質かを考えないようにする。矛盾したままで併存する心は、患者のみならず筆者自身にも存在する。それはいわば局所的な無意識としてのあり方であり、それらは別々のところに並んでいる。臨床的な無意識の表れは、そんなものだ。そして人のこころは浮動性を有し、抑圧モデルとは異なる心の在り方を、評者なら解離的なあり方を見せる。それがより自然な無意識の現れ方だ。
相変わらずケースの描写はほのぼのとし、そこで解釈による解決を急ぐことなく、患者に寄り添い、時には自分自身に突っ込みを入れつつ一緒に漂っているという雰囲気を感じさせる。