2024年8月28日水曜日

希望の在り処 推敲の推敲 2 

 第4章「関係理論から見た対象、主体、間主観性」は理論的でかつ極めて重厚な章だ。筆者が依拠する関係精神分析がフロイト的な精神分析とどのような点で異なるかについて簡潔にまとめられている。筆者はまずフロイトが誘惑説から欲動説に向かったことで、外傷体験(外的出来事)から本能衝動(心的現実)へと関心が向かったとする。このようなフロイト的な視点と対照的な理論がウィニコットにより提示される。ウィニコットの主張をひとことで言えば、欲動の断念には、まずは母親による充足(の錯覚)が施されなくてはならない。脱錯覚はそれから先に生じるプロセスなのだ、とする。このフロイトとウィニコットの視点の違いは驚くばかりである。

 ウィニコットの有名なテーゼ、すなわち「対象は主体によって破壊され、生きのびなくてはならない」は著者によっても取り上げられる。「破壊されながら生き延びる」という意味が特に難しいところだが、著者はこれが治療者側の主体性との関連で論じられる。そしてそれが近年の関係論的な考え方である治療関係の間主観的なあり方の議論に繋がっていることが力説される。筆者を通して、改めてウィニコットの先駆性が確認される章である。


第6章 「自己愛と攻撃性 ―怒りの向こう側にあるもの」は2017年と比較的最近の論文であり、評者にとってなじみ深いテーマに関する論考である。本章で筆者があげているビニエットが私は好きだ。患者は筆者との診察中に入ってきたナースが「すみません」と言って出て行ったことに反応し、「私に向かって言うべきではないか!」と憤慨する。その時筆者はあえて「あなたがないがしろにされて傷ついたのであろう」という解釈を与えなかったという。それがその患者を攻撃しているというニュアンスを与える可能性を考えたからだという。しかしそれから時間が経ち、患者が「私って怒りっぽいですか?」と尋ねた時に、著者はニッコリとしながら「そうだね、怒りっぽいよね」と答え、それが患者の心に入っていった様子を見たという。私は筆者のことを比較的よく知っている方だと思うが、彼が患者と言葉を交わした時の表情が目に浮かぶようだし、それだからうまく色々なニュアンスが相手に伝わったのであろうと思う。怒りについて真正面から取り扱うことに慎重な、二者関係的な怒りの理解もとても参考になった。 


第7章 「つながること、つなげること」で筆者は意識と無意識という、普段はあまり扱わないようなテーマについて論じる。それは本論文が「意識と無意識―臨床の現場から」(人文書院、2006年)という論文集の一章として書かれているからだ。最初から指定されたテーマに向けて書くことも難しさがそこには表れているようだ。著者はこのテーマについて理論的な考察は回避し、臨床上に感じた「つながらなさ」について論じる形で論考を進める。一人は摂食障害の「怜子さん」。彼女は低体重で体を起こすことさえもままならないはずなのに、入院中に同室の患者の持ち物を盗んだらしい。著者は彼女の床頭台からそれを見つけるが、怜子さんは特に動揺を見せず、ただ「知らない」という。筆者は怜子さんの中の「治りたい自分」と「治りたくない自分」の間の「つながらなさ」を感じる。続いて厳しい父親のもとで育った思春期の「太郎君」。父親に気持ちを言えなかった彼が成長し、ある時勉強を強いる父親に暴力を振るう。そのことをたしなめた著者に太郎君は言う。「自分の気持ちを親に表現するように言ったのは先生じゃないか!」それを聞いた著者は「そうだったよな」と思いだし、そして著者は過去には考えていたことと今の考えの「つながらなさ」を実感する。

 著者は抑圧された無意識というフロイトの図式から離れ、矛盾する心のどちらが表層で、どちらがより本質かを考えないようにする。「つながらない」ままで併存する心は、患者のみならず筆者自身にも存在する。臨床的な無意識の表れはそのようなものだ。そして人のこころは浮動性を有し、抑圧モデルとは異なる心の在り方(評者なら「解離的なあり方」と呼びたい)がより自然な無意識の現れ方であるという。

 相変わらずケースの描写はほのぼのとし、そこで解釈による解決を急ぐことなく、患者に寄り添い、時には自分自身に突っ込みを入れつつ一緒に漂っているという雰囲気を感じさせる。

第8章「精神療法における希望の在り処について‐反復強迫からの脱出をめぐって」は本書の表題に呼応する章である。重篤な精神病理を持った思春期女性の治療をめぐる生々しい記録である。筆者は特にAさんとの治療を関係性の反復強迫として理解している。それはフロイトのいうリビドー的な反復ではなく、悪い対象関係の繰り返しという反復である。その理論的な部分、特にフェアバーンの内的精神構造モデルを用いた説明は私には難解でフォローするのが難しかったが、少なくとも著者なりの格闘の跡はうかがえる。たとえば「刺激的な対象である食物・・・に結びついたAのリビドー自我は『食べてしまう自分』として現われ、・・・反リビドー自我は『食べてはいかない』自分として、拒絶的な対象としての食物と結びついて現れた。・・・」と続く。しかしもっと深く分かりたいけれどわからない‥‥というモヤモヤ感が生じるが、それはウィニコットの理論によりかなり払拭される.それは反復を主体の側の活動性の証であり希望とみなす立場である。そしてそのためには治療者はもう一つの主体としての能動性を発揮することが重要となる。第4章と同様、精神療法の希望は著者によってウィニコットのオプティミズムと破壊性を生き延びる治療者の示す能動性として示されているのだ。

 確かにこの治療ではかなり筆者の能動性が発揮されている。入院治療は筆者の転勤により終了する形となるが、その際に筆者は退院して転勤先での外来での治療の継続をAさんに提案する。そして継続されたのはAの攻撃性に晒されながらも辛抱強くそこに居続けた筆者の姿勢である。

しばしば患者は予想ないし説明不可能な過程を経て回復していくものだ。結局は筆者が何が起きてもそこに居続け、関わり続けることに意義がある。そのことを改めて感じさせてくれる章である。この章も全体として著者らしい味がよく出ていると感じる。