2024年8月26日月曜日

希望の在り処 推敲 2

 第4章 関係理論から見た対象、主体、間主観性

 これまでとは一変して理論的でかつ極めて重厚な章だ。筆者が依拠する関係精神分析がフロイト的な精神分析とどのような点で異なるかについて簡潔にまとめられている。筆者はまずフロイトが誘惑説から欲動説に向かったことで、外傷体験(外的出来事)から本能衝動(心的現実)へと関心が向かったとする。

  このようなフロイト的な視点と対照的な理論がウィニコットにより提示される。彼の主張をひとことで言えば、欲動の断念には、まずは母親による充足(の錯覚)が施されなくてはならない。脱錯覚はそれから先に生じるプロセスなのだ。このフロイトとウィニコットの視点の違いは驚くばかりである。

 

第6章 自己愛と攻撃性 ―怒りの向こう側にあるもの


  評者にとってなじみ深いテーマに関する論考である。2017年と比較的最近の論文である。私の立場は、成人が体験する怒りのほとんどが「自己愛憤怒」であるというものだ。それ以外で人は簡単に怒ることはないであろうという、少し極端な立場である。もちろん自我境界に侵入された時の怒り等はこれに含まれる。電車で突然足を踏まれた場合などはそうだ。しかし全く偶発的な原因で足を踏まれても、人は別に怒りで反応はしないものだ。それを筆者はどのように見ているのかを教えてくれる。

 本章で筆者があげているビニエットは私が好きなものだ。患者は筆者との診察中に入ってきたナースに反応し、「すみません」と言って出て行った態度について、「私に向かって言うべきではないか!」と憤慨する。その時筆者はあえて「あなたがないがしろにされて傷ついたのであろう」という解釈を与えなかった。それはそれがその患者を攻撃しているというニュアンスを与えたであろうと考えたからだ。しかしそれから時間が経ち、患者が「私って怒りっぽいですか?」と尋ねた時に、ニッコリとしながら「そうだね、怒りっぽいよね」と答え、それが患者の心に入っていった様子を見たというものである。私は筆者のことをよく知っていると思うが、彼がそう言った時の表情が目に浮かぶようだし、それだからうまく色々なニュアンスが相手に伝わったのであろうと思う。ミッチェルによる二者関係的な怒りの理解。参考になった。 


第7章 つながること、つなげること

本書も第3部「つながること」と「つなげること」に入り、最初の章である。 

 筆者は意識と無意識という、普段はあまり考えないテーマについて論じて多少とも戸惑いつつ論じているようであるが、それには理由がある。本論文は「意識と無意識―臨床の現場から」(人文書院、2006年)という題の論文集の一章として書かれているからだ。最初から指定されたテーマに向けて書くことも難しさがそこには表れているようだ。そしてこの章には、「関係論から見た意識と無意識」という副題がついている。
 著者はこのテーマについて理論的な考察は回避し、二つのケースの描写という形で論考が進む。一つは摂食障害の「怜子さん」。彼女は低体重で到底体を起こすこともままならないはずなのに、入院中に同室の患者の持ち物を盗んだらしい。著者は彼女の床頭台からそれが見つかる。彼女は特に動揺を見せず、ただ「知らない」という。筆者は怜子さんの中「直りたい自分」と「治りたくない自分」の間の繋がらなさを感じる。 続いて厳しい父親のもとで育った思春期の「太郎君」。父親に気持ちを言えなかった彼が成長し、ある時勉強を強いる父親に暴力を振るう。そのことを知ってたしなめた著者に太郎君は言う。「自分の気持ちを親に表現するように言ったのは先生じゃないか!」それを聞いた著者は「そうだったよな」と思いだし、そして著者は過去には考えていたことと今の考えの繋がらなさを実感する。

 著者は抑圧された無意識というフロイトの図式から離れ、矛盾する心のどちらが表層で、どちらがより本質かを考えないようにする。矛盾したままで併存する心は、患者のみならず筆者自身にも存在する。それはいわば局所的な無意識としてのあり方であり、それらは別々のところに並んでいる。臨床的な無意識の表れは、そんなものだ。そして人のこころは浮動性を有し、抑圧モデルとは異なる心の在り方を、評者なら解離的なあり方を見せる。それがより自然な無意識の現れ方だ。

 相変わらずケースの描写はほのぼのとし、そこで解釈による解決を急ぐことなく、患者に寄り添い、時には自分自身に突っ込みを入れつつ一緒に漂っているという雰囲気を感じさせる。


第8章 精神療法における希望の在り処について‐反復強迫からの脱出をめぐって


 本書の表題(「精神療法における希望の在りか」)とおなじ題がついている本章は、重篤な精神病理を持った思春期女性の治療をめぐる生々しい記録である。筆者は特にAとの治療を関係性の反復強迫として理解している。それはフロイトのいうリビドー的な反復ではなく、悪い対象関係の繰り返しという反復である。その理論的な部分、特にフェアバーンの内的精神構造モデルを用いた説明は私には難解でフォローするのが難しかったが、少なくとも著者なりの格闘の跡はうかがえる。たとえば「刺激的な対象である食物・・・に結びついたAのリビドー自我は『食べてしまう自分』として現われ、・・・反リビドー自我は『食べてはいかない』自分として、拒絶的な対象としての食物と結びついて現れた。そして『食べてはいけない』自分は激しい攻撃を『食べてしまう』自分に向けていて、『食べなくてはならない』気持ち(Aの中心自我)に寄り添おうとした治療者は『食べてしまう』自分と結びついた刺激的な対象と見なされて、Aの反リビドー自我からの攻撃は治療者に向かって外在化される。」というような説明である。

 もっと深く分かりたいけれどわからない‥‥というモヤモヤ感はウィニコットの理論によりかなり払拭される.それは反復を主体の側の活動性の証であり希望とみなす立場である。そしてそのためには治療者はもう一つの主体としての能動性を発揮することが重要となる。精神療法の希望は著者によってウィニコットのオプティミズムと破壊性を生き延びる治療者の示す能動性として示されている。

 確かにこの治療ではかなり筆者の能動性が発揮されている。入院治療は筆者の転勤により終了する形となるが、その際に筆者はAに退院し、転勤先での外来での治療の継続を提案する。そして継続されたのはAの攻撃性に晒されながらも辛抱強くそこに居続けた筆者の姿勢である。

しばしば患者は予想ないし説明不可能な過程を経て回復していく。結局は筆者が何が起きてもそこに居続け、関わり続ける治療者の存在である。そしてこの治療関係全体を見渡すと、著者らしい味が出ていると感じる。