本書は我が国の関係学派の指導的立場にあり、また対人関係論や関係精神分析に関する貴重な翻訳書(特にスティーブン・ミッチェル、ルイス・アロンなどの著作)を世に送り続けてきた●●先生がご自身の論文をまとめた書である。私(岡野、以下「評者」)にとって嬉しいのは、●●先生(以下「著者」)と同年(1982年)に精神科医となり研修を開始したことである。すなわち著者がたどった精神科医としての道程の時代背景をほぼ共有しているのだ。特に当時は新しかったDSM-Ⅲの流れをもろに受け、BPDの概念にもまれ、やがてトラウマへの関心を深める一方では、米国の関係精神分析に興味を抱き、それが自らの臨床指針を形成していくというプロセスは、私とほぼ同じなのだ。何と頼もしいことだろう。
中略
第2章「ライ麦畑のつかまえ役ー境界例患者の治療から」も魅力的な章である。書く人間の習性であろうが、評者は学術論文を読む時、「自分にこれが書けるか」ということをよく考える。その上で言えば、私にはこんな素敵なケース報告は決して書けない。もちろんケースそのものが魅力的なのであろうが、それを描写する力もそれに匹敵していることになる。著者がごく若い頃に出会ったケースの治療でありながら、肩の力が抜けていて、そこに文学的な素養やユーモアのセンスが加わり、読むものを楽しませてくれる。
第3章「『あらかじめ失われた母』の病理」は理論的で難解でもあるが、現代の精神分析において極めて重要なテーマを扱っている。それは母性剥奪、今でいう愛着トラウマの議論であり、それを著者は「あらかじめ失われた母」と呼ぶ。著者は家庭裁判所の調査官の研修を通して知った触法少年たちの事例との関連でこのテーマについて論じるが、そこで理論的な枠組みを提供するのはD.W.ウィニコットである。彼によれば患者の反社会的傾向は「その子供の中の将来への希望が生じてきたことを意味する」というのだ。
処遇に難渋する触法少年を扱う上での、このウィニコットのオプティミズムには著者がそうであるように同じように救われる思いがする。ただしその治療、ないし処遇は困難を極める。そのことを著者は次のようなウィニコットの引用で語る。[私たちは極度の依存状態下の乳児が適切に持つ経験を、同じような経験を患者に提供しなければなりません」。
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本書の全体を通して著者らしい肩の力の抜けた臨床スタイルを感じさせる。そして私が常日頃考えていることを保証してくれているようだ。つまり「難しい臨床的な問いへの答えはいつもウィニコットがはるか前に教えてくれていた」ということだ。
●●先生の世界に触れることのできる貴重な所として本書を高く評価したい。