2024年9月16日月曜日

記憶の抑制に意味があるのか 最終回

 9月7日は日本心理学会88回大会にオンラインで出席し、100人ほどの参加者があったそうである。(実際は対面方式で、オンライン参加は私だけであった。)

実際に発表を聞いて新たに学んだことは、少なくとも心理の基礎研究でも臨床に役立つような研究が行われ、それを私達臨床家が積極的に学ぶ必要があるということである。事実「記憶の抑制のよしあし」についての臨床家との対話という試みはこれまでも行われて、その成果が発表されているということを私は知らなかった。「杉山崇、越智啓太,丹藤克也(2015) 記憶心理学と臨床心理学のコラボレーション 北大路書房」などはすでに9年前に出版されているのだ。今回の討論の前に取り寄せて読むべきであった。
 しかし私に対する討論への討論(つまりお返事)の形で発表者から教えていただいたのは、実際にPTSDの記憶についての研究もおこなわれており、そこではトラウマ記憶の抑制はある程度可能であるが、リバウンドが大きい、という幾つかの研究結果が出ているとのことである。予想していたとはいえ私の知らないことだった。また先生方の話の中に解離という単語は一度も出て来ず、やはり抑制、抑圧に比べて解離と記憶に関する基礎研究はまだまだこれからであるということを実感した。

結局つらい記憶の抑制の問題は、それがいい事か、悪い事かの判断は一概にできないものの、人が意図的にあることを忘れようとする試みには一定の効果があるということを知ったことの意味は大きい。(ひとは考えまいとすれば余計考えてしまうといういわゆる「逆説的効果」は神話であるという研究結果もあるのである。(何しろ忘れようとするときには海馬がオフになって協力してくれるのだから。)認知行動療法的な試みに対して今一つ理解と許容性が深まったという自覚がある。

 

 

2024年9月15日日曜日

記憶の抑制に意味があるのか? 6

 記憶の再固定化の問題

ところでこの記憶を呼び覚ますか抑制するかは時と場合によるという議論は、私の考えでは記憶の再固定化の問題に行きつく。記憶は想起することで不安定になる。その時にどのようなことが行われることでいい方向に再固定化されていけば治療的であり、そうでなければ非治療的である。そしてそれはあまりにケースバイケースなのだ。記憶が labile な状態で何が起きるかが決定的に重要である。

一般的に言われるのは、安全で安心な環境に置かれた状況で記憶が想起された場合は、その記憶の外傷的な性質は低下するということである。そしてこれを用いているのが、いわゆる系統的脱感作法である。この方法は1950年代に精神科医のウォルピという方が開発した行動療法の一つであるが、安全な場所でゆったりとしたリラックス感を味わいながら、対象となるべき思考や記憶を扱うということにより、その記憶の外傷性を徐々に低下させていく、ということである。いわゆる曝露療法もこれと同じ類と考えることが出来るであろう。しかしこの安全安心な環境の提供は非常に難しく、一歩間違えればトラウマ記憶がより外傷的な形で再固定化されてしまうかもしれないのである。

ある患者さんは昔よく聞いていたロックミュージックを聞いていたところ、見事にFBがシャットアウトされたと言っていた。音楽を聴きながらだとトラウマ記憶が蘇ってもあっという間に解毒されてより安全な形で再固定化されたらしいのである。このような現象が、恐らく患者さん個人により特殊な形で成立するかもしれない。


解離との関連性

三人の先生方により論じられたのは思考や記憶の意図的な抑制である。それらが健常人でも生じることについては様々な研究により示されている。しかし臨床で出会う健忘は解離の機制が関与していることが非常に多い。過去に起きたことが一定期間思い出せない場合、それは抑制という意図的な努力が関係していないことが普通である。それはいわば脳が異なる人格状態で生じる記憶であり、その人格状態に戻らない限りはそれを想起出来ないという現象である。つまりトラウマ記憶と同じように通常のエピソード記憶とは違った振る舞いをするために、意図的な記憶の抑制が働かないという問題が生じる。

今後はこの解離の問題が基礎研究で何らかの形で解明されることを私は非常に期待している。





2024年9月14日土曜日

記憶の抑制に意味があるのか? 5

 さて次は小林先生記憶の抑制についてのお話である。

小林先生がお作りになった心理学ミュージアムの「嫌な記憶よさようなら~記憶を意図的に忘れる~」も拝見した。私自身もかつて「精神科医が教える忘れる技術」(2019年、創元社)という本を出したこともあり、その意味では私が関心を持っているテーマでもある。

実は専門的なお話が多くてあまり理解は出来なかったが、結論としてはネガティブな記憶はネガティブな気分を誘導するという負のループが成立しており、ネガティブな記憶の抑制は実際に効果があるだけでなく、治療的にも役立つのではないかということである。これはまさに、トラウマ記憶を呼び覚ますとそれが再外傷体験につながるというロジックともつながってくるという意味では有意義なことである。また小林先生の最後のスライドにあった、Levy & Anderson の研究、つまり侵入の程度において海馬が不活化されるという発表は示唆的であった。このことをおそらく臨床家の多くは知らないと思う。この小林先生の研究も私が述べている臨床的な事実、すなわちつまり外傷的な記憶の想起は是々非々で行なうべきであり、いたずらに想起することは再外傷体験につながる可能性を常に注意すべきである、ということに繋がる。ただし服部先生のご発表に対する討論でも触れたとおり、この議論は恐らくエピソード記憶について主に言えるのではないか。トラウマ記憶に関しては、この抑制の機能が上手く行っていないために、この考え方が必ずしも当てはまらない場合もあるのではないかと思う。

松本先生自伝的記憶の概括化(OGM)の研究をもとに発表されている。これは認知療法でいうところの「自動思考」に相当するものがうつ病で生じているということを意味するだろう。つまり過去を回想する際にも、個々の事例を客観的な目で想起することなく、過度の一般化を行ってしまうという傾向だ。そしてこの過度の一般化は自動思考の一つである。

また松本先生が最後に示された「統合的な枠組み」は興味深いものである。要するに患者においては抑制対象となるネガティブな思考や記憶が多いという事実は確かにあり、それに対処する必要があるということだ。これはある意味では基礎研究を超えてその臨床的な応用を考えてのことであり、とても臨床畑の人間にとってはありがたいことである。恐らく患者さんたちも思考や記憶の抑制の機能はかなり正常に働いているものの、過去の記憶のネガティブな記憶が多すぎるという問題があり、これはトラウマを負った患者さんたちにまさに該当する。精神分析の様に何を抑圧しているかを探ることよりは、そのネガティブな思考や記憶そのものをどのように扱うかという問題意識はよりシンプルであり、治療目標としやすいであろう。

これに関連して臨床上問題となるのは、実際に客観的なトラウマ記憶がないにもかかわらず、常に「誰にも愛されなかった」「ひどい扱いばかりを受けてきた」という訴えを持つ患者さんたちである。そしてそこにはネガティブな解釈をする傾向にあるBPDや発達障害の問題が関与しているものと思われる。


2024年9月13日金曜日

記憶の抑制に意味があるのか? 4

 服部先生の発表は思考抑制についてである。そして実際に意図的な思考抑制を行った結果、思考頻度が低下すること、またリバウンド効果(抑制が解除された際には過剰に思い出してしまうこと)はあっても非常に小さいということを示していただいた。つまりいわゆる「逆説的効果」(忘れようと思う程かえって思い出してしまうこと)は神話であるということであった。これは臨床家である私にとっては大きな学びであった。なぜなら私もこの神話に影響を受けていたからである。つまり治療者も患者も自分の「忘れよう」という努力の効果をもっと信じるべきであるという教えを受けたことになる。またあることを考えまいとするとその抑制対象に対するネガティブな認知が強まるということもとても興味深いことである。

服部先生の発表の臨床的な示唆としては、病気の人は思考抑制を行なっており、それはある程度うまく行っているもののその実感がなく、また抑制対象はますます不快なものに感じてしまうということである。そして服部先生の最終的な結論は以下のものである。
「基礎研究では、思考抑制の短期的な効果を証明している。しかし臨床では思考抑制の習慣化があまり根拠なく問題視されてきている。」

 これに対する私の討論は、以下の通りとなる。「服部先生のおっしゃる通り、思考抑制は患者においても起きるべくして起きるのであり、それが患者の苦痛の軽減につながるのであれば、その患者の努力を評価すべきであろう。またやがて患者が回復した時には、回避することでよりネガティブに思えてきたその思考に再び取り組むことも悪くないであろう。
ただしこの議論は恐らくエピソード記憶について主に言えるのではないか。それはうつ病や神経症水準の患者さんに対しては言える事であっても、私が多く扱うPTSDや解離などのトラウマ関連障害の患者さんに関しては、上手くいかないことがある。それは患者が抑制したい思考や記憶は、いわゆるトラウマ記憶であり、それは意図的な抑制の対象にはならない可能性があるからである。事実PTSDにおける記憶の問題は、この意図的な抑制が十分に行えないという事情にあるということを研究は示しているからである。だからトラウマ記憶の抑制よりは、彼らの記憶のコントロールシステムに働きかけなくてはならないという研究結果がある。

参考文献)Alison Mary et al.(2020)  ,Resilience after trauma: The role of memory suppression.Science367,



2024年9月12日木曜日

統合論と「解離能」10 

 さてなぜ統合する必要があるのかについて著者は次のように述べる。「過去の辛さを別の人格に背負わせることで、その記憶も感情も時間とともに風化しなくなってかえって辛くなっている」「大人になったら辛いことから逃げないで対処することをしっぱりと認識してもらう」「それさえ受け入れられれば、辛い過去の感情をその場で流すことが出来るのが、このUSPTの非常に大きな特徴である。」(p.31)そして人格の統合に抵抗を示す患者に対して次のように言う、とある。人格は決して消えることがない、と伝えて次のジグソ―パズルの比喩を用いる。少し長いが重要部分なので引用しよう。 「今のあなたの状態は、ばらばらになったジグソーパズルです。そのままだと、過去の辛い感情が流れずにどんどんたまっていく一方なのです。ジグソーパズルがきちんと出来上がると、過去の感情が流せてとても楽になります。別人格はジグソーパズルのピースみたいなものだから、一つになっても消えるわけではないのです。その証拠に、いったん融合・統合した後でも、再解離してもといた別人格が出てくることは日常茶飯事です。(下線は岡野」(p.32) 小栗先生の本章の根幹部分は意外とあっさりしたものである。それは「統合により辛い過去の感情が流されて楽になる」ということに尽きると言っていいであろう。ただその根拠についてはこの章では明確には触れられていない。 第5章は再び新谷医師の執筆であるが、最初にUSPTを行なう際の説明として、「膝と肩に触れる治療であること」とともに「現時点ではUSPTにエビデンスがないこと」を挙げていることだ。これはとても率直な態度であるとも言える(率直過ぎて少し肩透かし感もある)。

2024年9月11日水曜日

統合論と「解離能」9 

 本書の第4章「人格解離機制ー典型的DIDと内在性解離―」はUSPTの創始者である小栗康平先生による章で、先生の考えるDIDのメカニズムが簡潔に書かれている。それによるとUSPTを用いた解離性障害の治療とは、「『統合』に向けて『融合』を何度も繰り返していき、最終的に基本人格を呼び出して実年齢まで成長させて、主人格と統合する」(p.21)ということである。ここで基本人格とは「生まれて来た時(胎生期も含む)の本当の自分」と定義されている。ということはこれはかなり野心的な治療目標とも言えるであろう。なぜなら私達が出会うDIDの方々の中には基本人格さん自身が見当たらない(深く眠っている)というケースがかなり見受けられるからだ。

また以下の文章も注目に値する。「幼少時に(生まれる前、胎生期のトラウマが原因であるという患者さんが約半数いる)強いストレスを回避する目的で、基本人格が別人格を生み出してそれに対処すると、以後ストレスに直面するたびに別人格を生み出して対処するようになります」(p.21∼22、下線岡野)。つまりトラウマは前生におけるものをかなりの割合で含むというやや特殊な立場である。
さらに著者によれば、最初は解離性健忘を伴う典型的なDIDにだけUSPTを試みていたが、解離性健忘はないものの表面上は鬱症状や感情不安定さなどを呈する人にこれを試みたところ、「予想外に非常に多数の患者さんから、内在する人格が表出して来ることを経験した」(p.24)とある。

2024年9月10日火曜日

記憶の抑制に意味があるのか? 3

 9月7日に開催された日本心理学会公募シンポジウムにおいて発表した討論内容は結局以下のようになった。 発表者の発表の趣旨に応じて討論者としては以下のいくつかの点について論じたいと思う。 先ず大前提として、臨床では記憶や思考の抑制を不適応なものと考えているのか?一般に考えられている精神分析的な精神療法ならそのような前提を持っていたかもしれない。すくなくともフロイトの精神分析理論ではそうであったと言えるであろう。また今でも感情を抑えずに表現する、あるいはトラウマ記憶を想起し、それに直面することを促す暴露療法的な手法は存在する。D.Fosha のAEDP (Accelerated Experiential Dynamic Psychotherapy加速化体験力動療法) の試みもあるくらいだ。 本来フロイトは感情を抑圧することが神経症につながるという考え方を持っていた。フロイトにおいてはリビドーがうっ滞し、蓄積されることが害悪であるという根強い考えがあった。あるトラウマ的な出来事に関する感情が閉じ込められている場合、それを表現することで症状がおさまるというのがいわゆる除反応 abreaction による効果である。フロイトは先輩医師ブロイアーと共に、これがあらゆるヒステリーの患者にとって有効であると考えた。しかし実際にはトラウマに直面することが再外傷体験を生んだり、症状を悪化させたりすることもある。 現在の精神医学は以前に比べて「トラウマ論より」であると言える。そしてむしろ臨床上一番問題になるのは、いわゆるフラッシュバック現象であり、要するに自分ではコントロールできないような侵入的な考えであり回想である。思考や記憶は、それが侵入的である限りにおいて、病的なのであるそれは例えばある日夢の中で昔の光景が突然現れる、とか日中の覚醒時にあるイメージが突然降ってくるという形を取る。もちろんテレビである映像を見たとたんに昔の記憶がよみがえるということもある。これらは一般にフラッシュバック(FB)と言われるが、これをいかにコントロールするか、あるいは突然襲ってくる記憶をどう処理するかというのが最大の問題になる。だから思考や記憶をいかに抑制するかという問題はむしろ喫緊の問題と言える。数多くの患者がFBや解離性の幻聴に苛まれている。だからこのテーマは極めて重要なのだ。 そして現代の治療者は過去の記憶内容を扱うことが改善につながるのであれば、行い、再外傷体験に繋がるのであればそれを行なわないという比較的単純な結論に至っている。 つまり外傷的な記憶の想起は是々非々で行なうべきであり、除反応か、再外傷体験のどちらかにつながる可能性を常に注意すべきである、ということである。 さて各先生のご発表に簡単に討論を行います。


2024年9月9日月曜日

記憶の抑制に意味があるのか? 2

 ちなみにメタ認知行動療法では、CAS(Cognitive Attentional Syndrome 認知注意症候群)という概念があり、いわば捉われている思考を意味し、それを平常心(DM:ディタッチト・マインドフルネス)に戻すことが治療の眼目とされるという。その為のトレーニングなども治療手段として提示されているが、これも上と同類と見ることが出来るであろう。

ではむしろ感情に焦点付けし、それを表現することを促す治療にはどの様なものがあるだろうか?これは精神分析理論に一脈通じる部分がある。フロイトは感情を抑圧することが神経症につながるという考え方を持っていた。フロイトにおいてはリビドーがうっ滞し、蓄積されることが害悪であるという根強い考えがあった。あるトラウマ的な出来事に関する感情が閉じ込められている場合、それを表現することで症状がおさまるというのがいわゆる除反応 abreaction による効果である。フロイトは先輩医師ブロイアーと共に、これがあらゆるヒステリーの患者にとって有効であると考えた。

ただしこの除反応は、現代的な視点からは、時にはそれが再トラウマ体験に繋がってしまうという問題がある。激しい感情表出の後、そう促されたことによりスッキリする場合もあれば、恨みや怒りが治療者に表出されることがある。

ちなみにフロイトにおける情動の表出については、彼のエネルギー経済論的な考え方が影響を与えている。フロイトは情動が転換されて症状になるとした。そしてそれが理解され、言葉を与えることで症状が改善すると考えたのである。ただこの転換の概念については科学的なエビデンスがないということで、DSM-5(2013)およびICD-11 (2022)においては今後は用いられないという方針が示されている。現在の精神医学はトラウマモデルに舵を切りつつあり、そこではトラウマ記憶をいかに扱うかということが問題となる。つまりそれを思い出そうと、むしろそっとしておこうと、どれだけそれが日常生活の邪魔にならないかを考えるのである。

ちなみに感情の表出に治療の主眼を置く理論も多く存在する。その一つが持続エクスポージャー法である。


侵入的な回想をいかに扱うか


より臨床的な立場から記憶の問題について考える際、一番問題になるのは、侵入的な回想である。記憶や思考は、それが侵入的である限りにおいて、病的なのである。ある日夢の中で昔の光景が突然現れる、とか日中の覚醒時にあるイメージが突然降ってくるという形を取る。もちろんテレビである映像を見たとたんに昔の記憶がよみがえるということもある。これらは一般にフラッシュバック(FB)と言われるが、これをいかにコントロールするか、あるいは突然襲ってくる記憶をどう処理するかというのが最大の問題になる。

結局この問題は記憶の再固定化の問題に行きつくものと思われる。

上手く再固定化されれば治療的であり、そうでなければ非治療的である。そしてそれはあまりにケースバイケースなのだ。記憶が labile な状態で何が起きるかが決定的に重要である。


2024年9月8日日曜日

記憶の抑制に意味があるのか? 1

 昨日(9月7日)に開催された日本心理学会の公募シンポジウム 「抑制は精神症状を悪化させるのか? 基礎研究と実践知の乖離」に討論者としてお招きを受けた。信州大学の松本昇先生の企画からのお誘いを受けたのである。ここから何回かは、討論者としての準備ノートを含む。

記憶や感情を抑えることの是非、というテーマは、トラウマ治療では常に問われている問題だ。トラウマを直接扱うべきか否か、という問題はトラウマの治療にとって極めて重要でかつ日常的な問題なのである。そしてこれに関しては二つの考え方が対立する形で存在する。

先ず「感情は扱わないに越したことがない」という立場としては、その為の治療手段として、マインドフルネス瞑想などが挙げられるかもしれない。マインドフルネスにおいては自分の呼吸の感覚への集中、あるいは居心地のいい場所にいるイメージなど、ニュートラル~ポジティブなテーマに留まるトレーニングを行なうわけであるが、その根幹部分はそこから離れた場合に元に戻すという手続きである。なぜなら人間の心は自然と一つのものから別のものに移るという性質を有しているからだ。私はこの最初のニュートラルなテーマに戻るというプロセスを、いわゆるDMN(デフォルトモードネットワーク)への回帰と同類と見ている。これは言葉を変えれば、心を何にも注意を向けていないという状態、いわばアイドリング状態に戻すことだ。ちょうど私達が何かを考えている時の視線は、何にも焦点を合わせずに宙を舞うだろう。あれと同じだ。禅の高僧も瞑想によりこの境地に至ることが出来るだろう。 DMNに回帰するだけでなく、何か特定のことに集中することにも同様の効果がある場合がある。ある外科医は、自らが進行性の癌を宣告されたが、翌日は、昼間の数時間を執刀医としてオペに没頭することでそのことについて考えないように出来たことが助けになったという逸話を書いていた。飲酒などによる酩酊ももちろん薦められるものではないが、似たような効果を生むだろう。

2024年9月7日土曜日

統合論と「解離能」8

ここからUSPTについて少し勉強する。小栗康平先生や新谷宏伸先生の提唱するこの技法は、「タッピングによる潜在意識化人格の統合」(新谷 宏伸 (著, 編集), 十寺 智子 (著), 小栗 康平 (著)(2020)USPT入門 解離性障害の新しい治療法 -タッピングによる潜在意識下人格の統合. 星和書店.) という研究所で私も以前から注目していた。本書では私が今検討している人格の統合ということを治療の最優先事項として掲げているという点で画期的な書である。ちなみにUSPTとはUnification of Subconscious Personalities by Tapping THerapy (タッピングによる潜在意識化人格の統合) の頭文字である。この治療の眼目として創始者小栗先生が唱えるのが、「表出してくる憑依人格の存在を通して生きることの意味まで深く考えさせられる事」であるとする。(同書p.2)ちなみに小栗先生は「マイナスエネルギーを浄化する方法ー精神科医が明かす心の不調とスピリチュアリズムの関係」(2010)という書も出されており、それが本書の共同著者である新谷宏伸先生(現USPT研究会理事長)の心をつかんだとある。本書では新谷先生が小栗先生のもとに言わば弟子入りして第三者の視点から本技法が生まれた経緯が書いていることが興味深い。それによると小栗先生は人格変換をEMDRを用いつつ行った結果「両ひざのタッピング」が最適だとの結論に達したという。そしてさらにある治療者A先生により人格の統合には「背部(肩甲骨のあたり」をタッピングすることがいいと伝授されたとのことである。そして両膝への左右交互のタッピング」で人格変換を手早く行い、背部のタッピングで人格を統合するというUSPTの原型が出来上がったとする(p.13)。何かフロイトがカタルシス法から前額法を経て自由連想法に至った経緯を思わせる様で先を読むのが楽しみである。

2024年9月6日金曜日

統合論と「解離能」7

 さてここからはForrest の説である。Forrest, KA (2001) Toward an etiology of dissociative identity disorder: a neurodevelopmental approach Conscious Cogn 10:259-93. 彼によれば、現在のところ、解離に関してもっとも有効な理論は、Putnam のDBSの理論だという。しかしその背景となる生物学的なメカニズムは説明されていないという問題があるとする。彼は人間が自己の異なる部分を統合する機能として眼窩前頭皮質OFCを含む前頭前野を挙げている。人が持つ幾つかの機能を、同じ人の持つ複数の側面としてとらえ、「全体としての自分 Global Me」を把握する際にこの部位が機能するという。そしてそれが低下すると、多面的な存在が個別なものとして理解され、Aさんという自己の異なる側面がAさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識されてしまう。これが自己像に対して行なわれるというのが彼のDIDの生成を説明する理論の骨子である。 「結局Aさんはいろいろな側面を持っている」という風にAさんを厚みを持った、多次元的な存在として把握するのであるが、OFCの機能低下により、それを逆に個別なものとして理解し、相互を別々のものとして理解すると、Aさん、A’さん、A’’さん・・・と別々の人として認識してしまう。そのことを、自己像に対して行なってしまうと、自己がどんどん分裂していく、という説だ。

 ただどうもこれはDIDの本質を捉えていないような気がする。この体験では自己像がいくつかに分かれる、という説明にはなっても、心がAに宿ったり、A’に宿ったりという、複数の主体の存在を説明していないように思えるのだ。いったいこの問題に手を付けている理論はあるのだろうか? 

眼窩前頭皮質とは眉間の奥にある脳の部分であるが、共感とか情緒交流などの話によく出てくる脳の部位。以下OFC)の機能が、虐待により非常に損なわれ、そのことにより行動依存的な自己像が統合されず、それがDIDの病理を生むという。すると例えば矛盾するやり取りの際に「側方抑制 lateral inhibition」が生じないことで、統合できないというのだ。

側方抑制は視覚について最初に報告されているというが、一つのニューロンが刺激されたとき、その周囲のニューロンがパルスを発生するのを抑制することを意味するという。視覚では、物体の境界を認識するのが容易になるという効果になる。物体が網膜のような二次元に投射された場合、物体の境界というか物体の淵で、光のコントラストが生じることが多いが、このようなコントラストの認識が容易になる。要するにある体験を持つとき、その輪郭を際立たせるようなメカニズムのことだ。
こんな例を考える。二卵性の双子の姉妹がいる。しかもとてもよく似ている。親しい人は二人を別々の人として体験するために、かなりの側方抑制を行うだろう。例えば顔の輪郭について、その際の部分を強調して体験することで、「二人はよく似ているけれど、よく見ると全然違う」。ここにOFCが関与しているとしよう。もし側方抑制が十分でないと、いつまでたっても二人を区別できない。では今度は一人の人間が、異なる顔を見せるとしよう。昨日との違いは、側方抑制の低下により強調されず、いずれも一人の人間として統合されたイメージに向かう。この場合は側方抑制が抑制される必要がある。そう、統合に必要なのは抑制の抑制というわけだ。ではいつも同じ人と思っていた人が異なる側面を急に見せたら? いつも優しい父親が全く異なる凶暴な側面を見せたら? 脳は一生懸命側方抑制を抑えることで、「両方とも同じ父親だ」と体験するだろう? でもそれが限度を超えたとしたら? 脳はおそらくそこで二人を別人と捉えることは出来ない。その代りこちらを別モードにするかもしれない。つまり体験する方の主体に別モードを準備するという.


2024年9月5日木曜日

統合論と「解離能」6

 さてHowell 先生が依拠する説としてあげていたPutnam のDBSの理論と共に上げていたKelly Forrest という学者の説。少し復習が必要だ。 先ずPutnam 離散的行動状態理論(Frank W. Putnam: Dissociation in Children and  Adolescents: A Developmental Perspective. Guilford  Press, 1997 

これは基本的に人間の行動は限られた一群の状態群の間を行き来することと捉えており,DIDの交代人格もその状態群の中の1つであるとする.交代人格という状態は,その他の通常の状態とは違い虐待などの外傷的で特別な環境下で学習される.そのため,交代人格という状態とその他の通常の状態の間には大きな隔たりと,状態依存性学習による健忘が生じると考える.Putnam(1997)にとって精神状態・行動状態というのは,心理学的・生理学的変数のパターンから成る独特の構造である.そして,この精神状態・行動状態はいくつも存在し,我々の行動はその状態間の移行として捉えられる.乳幼児を例にとれば,静かに寝ているノンレム睡眠時が行動状態Ⅰ,寝てはいるものの全身をもぞもぞさせたりしかめ面,微笑,泣きそうな顔などを示すレム睡眠時が行動状態Ⅱ,今にも寝入りそうでうとうとしている状態が行動状態Ⅲ,意識が清明だがじっとして安静にしている状態が行動状態Ⅳ,意識が清明で気分がよく,身体的な動きが活発な状態が行動状態Ⅴ,意識が清明で今にも泣きそうな状態が行動状態Ⅵ,そして大泣きしている状態が行動状態Ⅶといった具合になる.そして状態が増えれば,それだけ行動の自由度が増す.

これらの状態は互いに近しいものもあれば遠いものもあり,いわば1つの部屋の中に離散的(離れて)に付置されている状態にある.そして,その状態間を行き来するための経路は,たとえば行動状態Ⅰと行動状態Ⅱはともに行き来可能だが行動状態Ⅰと行動状態Ⅶの間には経路は存在しないといったように,ある規則に従って定められている.この行動状態の構造が,個々人の人格を定義するものとなる.
上記のような状態群は,大抵の乳幼児には観察できるものであろう.しかし,被虐待児の場合は,その他にやや特別な行動状態群を形成する.虐待エピソードのような恐怖に条件づけられた行動状態は,血圧・心拍数・カテコールアミン濃度などの自律神経系の指数の上昇といった生理学的な過覚醒と連合している.それは極めて不快で,我々の大部分にとっては日常体験の外に存在するものである.上記Ⅰ~Ⅶの行動状態を“日常的な行動ループ”とすれば,虐待エピソードで獲得された状態群は独自の性質をもつ“外傷関連の行動ループ”といえよう.この2つの行動ループは,いわば同一の部屋には納まるものの互いに離れたところに付置し,そのために行動全体がまとまりをなくすという状態になる. 心理的外傷を負った子どもが,それを想起させるような刺激に遭遇し感受性が高まると日常的な行動ループにいても外傷関連の行動ループを活性化させ,一足飛びにその状態へスイッチングする.しかし日常的な行動ループと遠く隔たった場所に存在する外傷関連の行動ループは,いつでもそこへ接近が可能なわけではない.情報というのは,多かれ少なかれ状態依存的な性質をもっているため,外傷関連の行動ループにもそれを獲得したときの状況と類似した状況であると認識しないと接近が困難である(このことは,第三者から見て外傷状況とは類似しない状況でも,本人が似ていると認識すれば接近してしまうということにもなる).ゆえに,外傷に関連する行動状態と日常的な行動状態とを結合する経路は,他の経路と比べると滅多に使われない.このように,異常な解離状態とは日常的な行動ループから遠く隔たった場所にある行動状態群で,かつそこへの接近がいつでも可能なわけではないものということになる.その典型例がDIDにおける交代人格である. 

 Putnam(1997)の説は,虐待などの特殊な状況での意識状態が,普段の意識とは離れたところに存在するという解離の基本骨子は引き継ぎつつ,そこに行動状態群という概念をもち込み,これまでDIDの成因論において中心的には扱われてこなかった状態依存学習を前面に強調した点が独創的である.


2024年9月4日水曜日

統合論と「解離能」 5 

 Winnicott が最後に残した草稿には、こんな文章がある。 「私は私たちの仕事について一種の革命 revolution を望んでいる。私達が行っていることを考えてみよう。抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。しかし患者が自己分析によっては作業出来ない以上、部分が全体になっていくのを誰かが見守らなくてはならない。(中略)多くの素晴らしい分析によくある失敗は、見た目は全体としての人seemingly a whole person に明らかに防衛として生じている抑圧に関連した素材に隠されている、患者の解離に関わっているのだ。」(Winnicott, quoted by Abram,2013, p.313,下線は岡野) 思わずエーッとなる内容だが、これを補足する様に Abram は論じる。「Winnicott の理論では、自己は発達促進的な環境によってのみ発達する。その本質部分がない場合は、迎合を基礎とした模造の自己 imitation self が発達し様々な度合いの偽りの自己が発達する(それについては真の自己と偽りの自己に関する自我の歪曲」(1960)という論文で論じてある。)そしてよくある精神分析では解離されたパーツ、すなわち偽りの自己の分析にいたらないのだ。(Abram p.313) 私は勢い余って太文字強調したが、Abram を読んでいると、Winnicott の偽りの自己の議論は事実錠解離の議論ということになる。少なくともAbram の筆致によれば、そしてWinnicott の記述を字義とおり取れば、彼はどうやら今の解離の議論を半世紀以上前に先取りしているということになるが、本当に信じていいのであろうか? ちなみにWinnicott の論文を解離という視点から読んでいくと、色々考えさせられてしまう。「対象の使用」という概念にあるように、他者は(主観的に構築された他者像)ではなく objective object (客観的な対象)という意味を持つが、これは別人格のあり方そのものではないかと感じる。別人格の振る舞いの意外性はまさにsubject のそれなのだ。思わず次のような論文のタイトルが浮かんでくる。「交代人格 alternate identity はsubjective object (主観的な対象)なのか、それとも objective object (客観的な対象)か?」これまでの考え方では前者だが、Winnicott 的に言えば、後者ということになる。常に新奇性を提供して来るからだ。

2024年9月3日火曜日

統合論と「解離能」4

 ところでこの議論、解離能の話とは逆行していると言える。最初は分裂しているのが人のこころだ、とすれば解離とは「元に戻る」ないしは「先に進めないでいる」ことを意味するし、治療の目標は当然ながら統合ということになる。 しかしこれは解離の最も不思議な現象である人格の創出、出現という問題を解決することにはならない。これは当たり前の話であるが、解離というのはもともと最初から分かれているものがくっつかない、という問題では決してない。最初あったのもが別れる、あるいは最初あったものの他に出来る、という現象である。そしてそれが解離能の概念につながる。この議論はだから解離する能力、すなわち「解離能」という概念に逆向しているといえる。 ではウィニコットはこの理論にどのように関係しているだろうか。ウィニコットは最初は断片的だった自己が統合されていくプロセスを論じている。ちなみにウィニコットも似たような考えを持っていた。ウィニコットは自己の発達過程で確かにそれまで分かれていた断片が融合するプロセスを論じている。その意味でPutnam 先生の分散行動モデルDBSに近いといえる。しかしこんな言い方をしているのだ。 「私の考えでは、自己self (自我ego、ではなく)は、私自身であり、その全体性は発達プロセスにおける操作を基礎とする全体性を有している。しかし同時に自己は部分を有し、実はそれらの部分により構成されているのだ。それらの部分は発達プロセスにおける操作により内側から外側へという方向で凝集していくが、それは抱えて扱ってくれる人間の環境により助けられなくてはならない(特に最初において最大限に、である。)」(Abram, .313)  Abram はこのプロセスは母親による発達促進的な環境 facilitating environment により成し遂げられ、そうでないと母親との迎合による模造自己 imitation self が出来上がるばかりであるという。つまり偽りの自己のことだ。 私が思うに、Winnicott のモデルはどうも発達過程での「部分→統合」というのとも違う気がする。彼は自己が確立してから、非自己が生まれるのだ、とも言っている。ということは内側から外側に向かって一つ(自己)になった後に非自己が分化していくが、その過程で偽りの自己も出来上がっていくという印象を受ける。部分 → 統合体 → 分化(自己、非自己)というより複雑なプロセスを考えているように思われる。 考えてもみよう。赤ん坊が母親に同一化するプロセスでは、自分と母親の相違には気がつかないだろう。そのうちに「あれ?何かがおかしい」となるはずだ。解離は自己の成立後に生じるはずである。それがもともとバラバラな状態のまま統合できない、というモデルとは違う。Winnicott が防衛的な解体という時は、やはりこの全体→部分に分かれる というプロセスが想定されているらしいのだ。

2024年9月2日月曜日

Gartner 先生の講演

 このブログは数日前のものが反映されているが、昨日(8月24日)はパシフィコ横浜で開かれている心理臨床学会の男性の性被害に関するシンポジウムが行われた。私は討論者として参加したのであるが、たくさん得るものがある一方では、少しもやもや感が残る内容であった。
 男性の性被害の問題はこれから多くのことが明らかにされるべきことであり、その分野を切り開いたガートナー先生の功績は多大なものである。しかし実際の臨床で出会う被害者の大半は女性であることも確かである。
 数日間ブログで示した通り、私が実際に関心を持ち、また困っているのは、男性の性加害性を女性の被害者にいかに伝えるかという問題である。それをガートナー先生にぶつけてみたのである。しかしこれについて先生の答えは、以下のようなものであった。

「性加害という問題から離れて、虐待者が被虐待者に対して虐待を働く際の力動について説明してはどうか?」
 なるほどと思った。そして彼は言った。
「虐待者が実は弱い存在であり、それを反転克服するために行うのが虐待である、という風に。」この方針は有効である一方で、被虐待者にこう言われてしまう可能性もあるだろう。「それは虐待者の言い訳に過ぎない。被害者である自分たちにとっては何の慰めや謝罪にもならない。」つまりこの説明である程度納得がいく場合もあれば、とてもいかないということもあるであろう。
 講演が終わり、同じ討論者の西岡さんたちとその後の食事に向かう際にガートナー先生にもう少し直接疑問をぶつけてみた。「先生は男性の性加害の問題についてどう思われますか?」
 それに対する先生の答えは意外なものだった。

「私は男性の性被害者について専門に扱ってきました。しかし男性の性加害者の専門ではありません」。エー、だって男性である私たちはある意味では当事者ではないのですか、と言いかけて私はそれ以上は言わなかった。これほどまでに、男性の専門家に、男性の性加害性について意識を向けることは難しいのだ、と理解した経験であった。

 ともあれ企画者の吉川真理先生、辻河昌登先生にこのような機会を与えていただいて、深く感謝する。

2024年9月1日日曜日

統合論と「解離能」3

Putnam 先生の discrete behavioral states (DBS) とは次のようなものだ。彼はそもそも人の心は統一体 unity としては出発しないという。人の心は時間をかけて統一体となるというのだ。そして人間の行動の構成要素ないしは自己状態 self state は連合的な経路 associative pathaway により繋がっていく。ところがトラウマによりこの経路が障害され、それぞれの自己状態は最初の状態に繋がったままになってしまうという。  逆にそれがないとそれぞれの部分は文脈から独立して(context independent) 存在するようになる。そしてHowell 先生がトラウマの例として出しているのは次のような例だ。ある男の子が背の高い男性にたたかれる。多分養父だったり実父だったりするだろうが、上級生かもしれない。するとその自己状態は文脈化されずに、ほかの背の高い男性を見ておびえてしまうというのだ。ところが解離の程度が弱い場合には、文脈的に使用できる contextually available ほかの自己状態にサポートしてもらえるであろうという。  このような考えについて Stephen Mitchell もこう言っているという。「精神分析により、より統一された自己が達成されるのはいいが、人格がまじりあうことが、互いに移行する葛藤的な自己をコンテインする能力に優先されるとは思えない。」  Watkins はこんな頼もしいことも言っているという。「それぞれの人格を fuse する必要はない。正常の人格もそうではないのだから」  そしてHowell はかなり本音を語っている。「だいたい、integration という語は問題だ。ラテン語の integer は単位とか単体unit or unity であり、統合という概念はワンパーソン心理学の概念なのだ。」関係論的な立場の人にとっては、一人心理学といわれると「終わっているといわているようなものなのだ。 

 一番大事な文章。「contextual interdependence 文脈的な相互依存という概念は、解離対統一という対立項を回避することができる」。と Howell 先生はおっしゃる。Howell 先生は統合否定論者だといっていいだろう。