2024年9月22日日曜日

統合論と「解離能」16  

 昨日のブログは結局ポールセンの本の引用だけになってしまったが、私の立場はかなり明白である。それは恐らくそのように進めることは自分には出来ないだろうということだ。たとえばポールセンは人格に「~と一緒になりたいか?統合されたいか?」と尋ねるが、自分はあまりその発想は持たないであろう。  上の例ではもう少し具体的には、子供のパーツを世話していたポニーという人格がもうその存在意味がなくなったので、統合が提案されたという。しかしここでポニーを取り立てて統合する必要はあるのであろうか。存在意味を失ったポニーはおそらくあまり出て来ず、休眠することになるだろうし、それはそれで任せればよいのではないか。  またポニーが世話をしていた子供たちは、それぞれがBASK処理が終わって大人しくなったというが、それぞれがトラウマ処理をしたというのであろう。しかしそれだけでも膨大な時間がかかったのではないだろうか。それともEMDRで比較的簡便にそれが済んだのだろうか?  ポールセンの論述では、それぞれの人格の確認 → EMDRによるトラウマ処理 → 人格の統合という風に進んでいくのであろうが、あまりに簡便に書かれている気がする。トラウマの処理とはそれほど迅速に進んでいくのであろうか?とてもそうは思えない。特に診断としてCPTSDが考えられるようなケースでは、過去のトラウマに触れるだけでも長い治療関係の構築が必要になってくる。  結局ポールセンの議論では、統合は全てのトラウマ処理が終わってから行なう、という印象を受けるが、そもそもそれぞれの人格が分離している必要が無くなってから統合を目指すとなると、それははるかに遠い先の話になるだろう。しかし過去のトラウマが大方処理されたのちにはそれぞれを背負っていた人格の出現自体も減ってきて、事実上の統合(実は多くの人格が寝静まった後)に過ぎないのであろうか。  でもこれも私の彼女の理論の理解が浅いからかもしれない。