Winnicott が最後に残した草稿には、こんな文章がある。 「私は私たちの仕事について一種の革命 revolution を望んでいる。私達が行っていることを考えてみよう。抑圧された無意識を扱う時は、私達は患者や確立された防衛と共謀しているのだ。しかし患者が自己分析によっては作業出来ない以上、部分が全体になっていくのを誰かが見守らなくてはならない。(中略)多くの素晴らしい分析によくある失敗は、見た目は全体としての人seemingly a whole person に明らかに防衛として生じている抑圧に関連した素材に隠されている、患者の解離に関わっているのだ。」(Winnicott, quoted by Abram,2013, p.313,下線は岡野) 思わずエーッとなる内容だが、これを補足する様に Abram は論じる。「Winnicott の理論では、自己は発達促進的な環境によってのみ発達する。その本質部分がない場合は、迎合を基礎とした模造の自己 imitation self が発達し様々な度合いの偽りの自己が発達する(それについては真の自己と偽りの自己に関する自我の歪曲」(1960)という論文で論じてある。)そしてよくある精神分析では解離されたパーツ、すなわち偽りの自己の分析にいたらないのだ。(Abram p.313) 私は勢い余って太文字強調したが、Abram を読んでいると、Winnicott の偽りの自己の議論は事実錠解離の議論ということになる。少なくともAbram の筆致によれば、そしてWinnicott の記述を字義とおり取れば、彼はどうやら今の解離の議論を半世紀以上前に先取りしているということになるが、本当に信じていいのであろうか? ちなみにWinnicott の論文を解離という視点から読んでいくと、色々考えさせられてしまう。「対象の使用」という概念にあるように、他者は(主観的に構築された他者像)ではなく objective object (客観的な対象)という意味を持つが、これは別人格のあり方そのものではないかと感じる。別人格の振る舞いの意外性はまさにsubject のそれなのだ。思わず次のような論文のタイトルが浮かんでくる。「交代人格 alternate identity はsubjective object (主観的な対象)なのか、それとも objective object (客観的な対象)か?」これまでの考え方では前者だが、Winnicott 的に言えば、後者ということになる。常に新奇性を提供して来るからだ。