2024年9月23日月曜日

統合論と「解離能」17 

 ポールセンの手法とUSPTを比べてみる。少なくともUSPTは統合をメインに考えていたことになる。統合によりうっ滞していた記憶や情動が流れ出す、というロジックだ。それに比べてポールセンの自我状態療法では解離している根拠をなくしてから(すなわちトラウマ処理をしてから)統合を行なうという手順になり、統合を最終目標においているとはいえ、それまでの過程を重視しているというニュアンスがありそうだ。 ここでポールセンをもう一度最初から読んでみる。彼女の言う「自我状態」は自己のパーツ同士の仕切りがそれほど強固でない時に呼ぶという(p.34)。もっと明確な健忘障壁を備えるようになると、「交代人格」となる。ということは自我状態はUSPTでいうところの内在性の解離状態に近いということが出来るであろうか。そしてポールセンにはこの障壁のことがよく出てくる。「障壁を取り払うこと=融合」という考え方が目立つ。 ポールセンの用いるテクニックの中で興味深いのは「BASK要素の封じ込め containment」というものである。これは behavior 行動 、affect 感情 、sensation 感覚 、knowledge 知識 のうち一部が欠損している体験、すなわち解離されている体験を、まとめて一つのボックスに入れておくというテクニックだという。いわば一時的に解凍されたトラウマ記憶をそのまま取っておくという作業らしい。これは仕舞いこみ、とも表現されているが、要するに外傷記憶が賦活された状態で、いわばフラッシュバックがおさまっていない状態に対する対処と言える。それをポールセンは小さいパーツが未だに「しまい込まれていない」と表現するのだ。 ここで興味深いのは、ポールセンはフロントパート(他者と関わる時の表向きの顔)と未解決のトラウマ記憶を抱えているほかのパーツの間の健忘障壁を利用するという姿勢だ。 全体として言える感想。やはり催眠から出発した療法家たちは、ある意味でとても操作的で、言い方によっては「理系的」とも言える。私も「心の地下室」にはなじみがあるが、ここまでクライエントにいろいろ操作をすることには少し後ろめたさを感じる。しかし理解的な発想では、「それでは何も治療をしていない」ということになるのだろうか。 ここでゲシュタルト療法を思い出す。empty chair 空の椅子を想像してもらい、そこに座っていると想像している誰かに話しかける。例えば自分の亡くなった母親に対して、など。これは「操作的」だが、同じようなことをクライエントに促すだろうか。悪くはないやり方であろう。でもどこか人為的、操作的な雰囲気がある。それに同じ作業を empty chair 法を用いなくては出来ないというわけでもないだろう。それはケースによっては劇的な効果を生む可能性のある一つのやり方だ。認知行動療法しかり。それは一つのメソッドとして抽出され、プロトコールが出来上がり、その為の研修が行われる。ポールセンの言う統合もそのような流れの延長として想定される治療目標と言えるだろうが、本当に現実の人間はその様に動くのだろうか。 そもそもの間違い(?)は30年足らず前にアメリカでEMDRの講習を受けてからさっそく試した何人かのケースに目立った効果が得られなかったことにあるだろうか。そこで驚くべき効果が得られ「これだ!」となったあたりから、トラウマを扱う主義に対して距離をおくようになっているのが問題なのだろうか?それとも「~療法」と銘打った治療法にうさん臭さを感じてしまう私の傾向なのだろうか?