2024年9月3日火曜日

統合論と「解離能」4

 ところでこの議論、解離能の話とは逆行していると言える。最初は分裂しているのが人のこころだ、とすれば解離とは「元に戻る」ないしは「先に進めないでいる」ことを意味するし、治療の目標は当然ながら統合ということになる。 しかしこれは解離の最も不思議な現象である人格の創出、出現という問題を解決することにはならない。これは当たり前の話であるが、解離というのはもともと最初から分かれているものがくっつかない、という問題では決してない。最初あったのもが別れる、あるいは最初あったものの他に出来る、という現象である。そしてそれが解離能の概念につながる。この議論はだから解離する能力、すなわち「解離能」という概念に逆向しているといえる。 ではウィニコットはこの理論にどのように関係しているだろうか。ウィニコットは最初は断片的だった自己が統合されていくプロセスを論じている。ちなみにウィニコットも似たような考えを持っていた。ウィニコットは自己の発達過程で確かにそれまで分かれていた断片が融合するプロセスを論じている。その意味でPutnam 先生の分散行動モデルDBSに近いといえる。しかしこんな言い方をしているのだ。 「私の考えでは、自己self (自我ego、ではなく)は、私自身であり、その全体性は発達プロセスにおける操作を基礎とする全体性を有している。しかし同時に自己は部分を有し、実はそれらの部分により構成されているのだ。それらの部分は発達プロセスにおける操作により内側から外側へという方向で凝集していくが、それは抱えて扱ってくれる人間の環境により助けられなくてはならない(特に最初において最大限に、である。)」(Abram, .313)  Abram はこのプロセスは母親による発達促進的な環境 facilitating environment により成し遂げられ、そうでないと母親との迎合による模造自己 imitation self が出来上がるばかりであるという。つまり偽りの自己のことだ。 私が思うに、Winnicott のモデルはどうも発達過程での「部分→統合」というのとも違う気がする。彼は自己が確立してから、非自己が生まれるのだ、とも言っている。ということは内側から外側に向かって一つ(自己)になった後に非自己が分化していくが、その過程で偽りの自己も出来上がっていくという印象を受ける。部分 → 統合体 → 分化(自己、非自己)というより複雑なプロセスを考えているように思われる。 考えてもみよう。赤ん坊が母親に同一化するプロセスでは、自分と母親の相違には気がつかないだろう。そのうちに「あれ?何かがおかしい」となるはずだ。解離は自己の成立後に生じるはずである。それがもともとバラバラな状態のまま統合できない、というモデルとは違う。Winnicott が防衛的な解体という時は、やはりこの全体→部分に分かれる というプロセスが想定されているらしいのだ。