2022年11月27日日曜日

脳科学と心理療法 3

 とここまで書いたところで時数をカウントすると2200字だ。ということはこれを5回書くとちょうどひと月分ということになるわけである。ということでこの初回はプロローグという形でもう少しダラダラ書き進めよう。

 私は今この連載の初回の部分で、私がいつから脳科学に興味を持ったかについて、私が精神科医になった時に遡って振り返っているのであるが、その兆候は見いだせない。だいたい私は心の本体が脳にあるなどという議論は最初から頭になかったと言っていい。あるのは精神分析だったのであるが、それは精神分析理論が心の本質を垣間見させてくれると期待していたからである。というよりは精神分析とはフロイトが始めたものであるということ以外は何も知らずに、ただ「精神を分析する」という名前だけに魅かれたのである。もし実際の精神分析が心を解明してくれないのであれば、自分が新しい精神分析理論を発見すればいいのだ、などと思っていたのだ。考えて見れば、私は精神分析のことも、そして自分の身の程も全く何もわかっていなかったのだ。

ただいまから考えると私は精神科医としての駆け出しのころから、ある一つの点に関して、明らかに「脳科学的」であったということが出来る。これに関しては私は脳の中のある部分を常に考えていたのだ。いや、「脳のこの部分」と特定できるわけではなかったし、きっと脳科学者なら答えを知っているだろうと思っていた。それは脳科学者に任せればいいことだ。私はただその部分の機能の仕方に魅了されていたのである。それを私は「快感中枢」と名付けた。そして次のようなことを考えていた。

「確かに私の脳の中にはある部分がある。そしてそれはとても重要な、でも謎めいた働きをするのだ。それは私にある行動を選ばせ、別の行動を回避させる。そしてそこにはかなりはっきりとした基準がある。それはその行動が心地よいかどうか、なのだ。」私は自分の行動を振り返る。私が行うのは、たいてい心地よいことだ。また私が避けるのは、だいたい不快なことだ。それも「たいてい」とか「だいたい」というよりはもっと、明確なのかもしれない。私の行動はそれ以外には規定されないほどにこの法則に従っている。

もちろん私たちの行動には不快を及ぼすものもある。例えば朝はまだ眠くて布団にこもっていたいが、それでもわが身を叱咤して布団から起き上がる。これって不快なことを選んではいないか?しかし少し考えればそうではないことに気が付く。私は朝布団にこもったきりになることで将来何が起きるかを予測する。私が担当している外来をすっぽかしたら大変な騒ぎになり、私は大変な迷惑をかけ、後悔し、またわが身を恥じることになるだろう。私は想像の世界の中で先取りしたその様な不快体験を、頭も実際に味わっているかのように一瞬体験し、それよりは布団を抜け出すことの方がはるかにましだと判断して着替えをして支度を整える。ホラ、明らかに私は快を求め、不快を避けている。臨床を通して馴染み深くなっていた強迫症状についても全く同じことだ。手を30分は洗わないときれいになった気がしない。もちろん30分手を冷水に晒すことは苦痛だ。ところがそれをやめてその場を去ることによる不安を想像すると、手を洗い続けることの方がよほど「不快の回避」なのだ。そしてそのような行動は大抵の場合合目的的なのである。

すると人間の知能とは、最終的な、あるいは想像出来うる範囲での未来の快不快を先取りして自らの行動を決めさせるために用いられる。何とすごい能力なのだろうか?このような問題について考え続けることは、私にとっては立派な脳科学だったのだ。