私は今でも考えることが好きである。そしてこの現実世界はいったんあるテーマについて考えだすと次から次へと疑問が湧いてくるという性質を持っている。私たちが漫然と生活を送っている限りはこの謎に満ちた現実世界を素通りしていくだけだろう。しかし私が疑問に思っていたような「人はなぜ、どうやって快を求めて行動を起こすのだろう」は、いったん考え出すとたちまち謎に満ちあふれだし、そこに吸い込まれていくような世界を垣間見せてくれる。ただしもちろん人によって何がその尽きせぬ疑問の対象となるのかは異なる。数学者の中でも整数論を研究する人は素数がどのように数の世界の中に分散しているか、そこに何らかの規則性があるのではないかということに興味を持つだろう。物理学者なら、例えば時間の矢はどうして一方向だけなのだろうか、と考えだすとそれこそ「時間を忘れる」かもしれない。また経済学の専門家は、株価の推移が何に支配されているのかに尽きせぬ魅力を感じるかもしれない。そして私の場合は人はなぜ行動を起こすのか、という問題だったのである。これらの問題は、一つの疑問が解決するとさらにその先にわからないことが出てくるという意味では、「フラクタル的」なのである。そしてフラクタル的なこの世界を感じ取ることが出来ると、おそらく私たちはこの世の中に生きていくうえで、およそ暇で暇で退屈でしょうがない、ということが滅多になくなるだろう。知性とはこの現実世界に生きている世界のあらゆるところに潜んでいる謎のうち、少なくともどれかに誘い込んでくれるという力を持つのである。何かについてオタクであることは、その人の知性を保証してくれているのだ。
結局私が言いたいことは次のことだ。精神科医になってしばらくの期間、私は人の心に魅了されていたが、脳科学的な疑問という形を取ることはまだなかった。というよりは脳科学に魅了されるような基礎知識をそもそも持っていなかった。つまり「ボーっと生きていた」のである。その代わりいくつかの理論は私を魅了することがあった。その一つが安永浩先生の「ファントム理論」であった。当時東京大学医学部附属病院分院の精神科助教授だった先生が1977年に出版した「ファントム空間論」は心の働きを論理的に追求した画期的な本であった。ただしこれも脳科学ではなかった。ただ私にとっては脳科学より魅力的な理論だったのだ。
ここで精神分析理論や快、不快の理論、ファントム空間論とはどうして私にとって脳科学より魅力的だったのかについて、ちょっと比喩的に考えてみようと思った。人間の脳をハードウェア、心をソフトウェアと考えよう。つまりPCでプレイするゲームとの類推で考えるのだ。おそらく私たちはパソコンのハードウェアの仕組みを知るよりは、ソフトウェアの内容、つまりはどのようなゲームなのかについて知りたいと思うのではないだろうか。それはそうだろう。そのマザーボードをいくら眺めても、集積回路をいくら顕微鏡で眺めてもゲームの内容はいつまで経っても見えてこない。それにパソコンのハードの仕組みを知らなくてもゲームを楽しみ、その技を向上させることはできる。そしてこの当時の私にとって、脳科学とはパソコンのハードウェアだったのだ。それよりはそれで動くプログラム、いわば心の本質(というものがあるとして)を知りたいではないか。それが精神分析理論やファントム理論だったのだ。