2022年11月11日金曜日

感情と精神療法 書き直し 8

 フロイトと情動体験

「感情と精神療法」はかなり込み入ったテーマである。自然科学と同様、精神医学や心理学においても顕在的で測定可能な所見がその対象とされる一方では、情動の問題はつかみがたいもの、扱い難いものとして敬遠されていた。その中で一世紀以上前に精神分析を創始したフロイトが、情動の持つ意味に注目したのは画期的な事であった。

 フロイトの人生において感情は非常に大きな位置を占めていたことは間違いない。私たちが目にするフロイトの写真はどれもしかつめらしい顔を見せ、親し気な笑顔はほとんど見られない。しかし彼ほどの情熱家はいなかったと言えるほどに人や物事への思い入れが深かった。婚約時代のマルタだけでなく、友人であるフリースに対してもラブレターに負けないくらい情熱的な内容を送ったが、その分決別の仕方も激しいものだった。

 フロイトが最も興味を持った感情は、性的欲望や興奮に関連するものであった。これほど強烈で、彼の心を惑わす感情はなかったのであろう。彼がエディプス葛藤の概念を生成する過程で論じていた幼児期の母親への性愛性は、多くのわれわれにとってはあまり実感がわかないが、彼自身はそれを若き母親に対して身を持って体験していた可能性がある。そして彼は26歳の頃にマルタ・ベルナイに一気に恋心を抱き、結婚して家庭を支えるために研究者の道を捨てて臨床に転じた。彼はマルタとの4年ほどの婚約期間に禁欲を保ったとされが、結婚した後にマルタに向けた熱烈な感情表現の記録は皆無といっていい。その情熱は思いを遂げるや否や消え去り、フロイトは性愛感情の極めて現実的な側面を知ることとなった。それはフロイトが後に精神分析における禁欲規則を唱えた際に念頭に置かれたのであろうが、この点については後に立ち返ろう。

臨床家フロイトの発見

ブロイアーの導きのもとで臨床家となったフロイトは、情動に関してもう一つの興味深い体験を持ったことになる。患者は催眠を通して過去のトラウマ体験を回想して情動体験を持った後にヒステリー症状が改善するのを目の当たりにした。いわゆるカタルシス効果や「除反応」と呼ばれるこの現象にフロイトは強く惹かれた。そしてフロイトは患者に対して過去のトラウマの想起を促すための働きかけを行うようになった。ただしすべての患者が催眠に誘導され、除反応を行うわけではない。そして最終的にはこのプロセスを緩徐な形で行う自由連想法が考案されたことになる。

フロイトは情動の表現が治癒に導くという発見をする一方では、それが治療者自身に向けられた場合にそれをどのように扱うべきかのすべを知らなかった。フロイトの有名な逸話に、ある患者が突然フロイトの首に手を回し、フロイトはその愛情表現に驚かされたというものがある(ジョーンズ「フロイト伝」第一巻p250)。しかしそれは患者が過去に別の対象に持った感情が、「情動の移動 transport of affection」によりたまたま治療者に向かっただけであると理解した。これが彼が後に転移と呼ぶ現象である。こうしてフロイトは患者の示す情動を学問的に理解し、治療の有効な手段として取り扱うという方向転換をしたことになる。