2022年11月16日水曜日

感情と精神療法 やり直し 推敲 3

 禁欲原則の持つ弊害とトラウマ理論

さて以上のフェレンチやアレキサンダーの例は、情動を積極的に喚起するという立場であったが、従来の「伝統的」な精神分析においては、禁欲原則との兼ね合いから、結果的にそれとは逆の結果を招くことも指摘されている。これまでに述べたとおり、フロイトの受け身性や禁欲規則は、それによる陽性の転移の喚起を目指したものであった。しかしそうすることで逆に患者の側からの陽性転移はかなり抑制されてしまう結果となりうることも現代の精神分析家たちは知っている。場合によっては自分のことを隠し、治療の多くの時間を黙って患者の話に耳を傾けるだけの治療者に対して、患者はネガティブな感情を持つことになりかねない。つまり治療者の受け身性が促す転移はあまり好ましくない治療の展開を生むこともある。患者は治療者のことを、過去に満足な養育環境を提供してくれなかった両親と同類の人間と感じ、そう見なすかもしれない。つまり患者は受け身的で情緒剝奪的な両親像のイメージを治療者に投影するのである。彼は半ば必然的に怒りの感情を治療者に向けることになるだろう。多くの分析的な治療者はこれを治療の「進展」と考えるであろう。「ようやく転移が生じたな」そしてそこに表された患者の怒りや羨望を治療的に扱おうと考えるはずである。ただしこれは重大な誤りである可能性がある。それをもたらしたのが、最近のトラウマ理論である。

最近の精神療法においては、対象となる患者さんたちの多くが体験している幼少時、あるいは思春期における性的、身体的、及び心理的なトラウマについて焦点が当たるようになって来ている。最近の愛着トラウマという概念(すなわち母親との愛着が十分に形成されなかった過程を一種のトラウマとして理解する立場)、あるいは複雑性PTSDの概念が強調するのは、患者さんたちの成育歴に一種の欠損が生じており、治療が再トラウマ体験となることがなく、十分な安全性を提供する必要があるという認識である。まずは治療者と患者の間の信頼関係が成立しないことには治療を進めて行くことが出来ない。まずは十分なラポールが成立することが重要なのである。するとこれは従来の精神分析が要請していた禁欲、あるいは受け身的な治療者の態度との間に大きな齟齬が生じるということになる。フロイトの理論にひきつけて考えるならば、彼の言う「治療の進展にとって邪魔にならない陽性転移unobjectionable positive transference, UOPT」の重要性は改めて強調されなくてはならない。というよりはこのUOPTが成立すること自体が一つの治療目標と見なされなくてはならないことになる。